再会と約束
『明日引っ越しを手伝え、お前に拒否権は無い』
「…は?」
姉貴から電話が掛かってきて、受話器を取った瞬間の事だった。
『荷物はレンタルのトラックで運ぶから。業者に頼むよか安いし』
「いや、ちょっとタンマ」
『あんたは馬車馬のごとく重い荷物を運ぶだけ、簡単でしょ?』
「そーじゃなくって、姉貴引っ越すのか?」
『アホ。今の部屋見つけるのにどれだけ苦労したと思ってんのよ』
「…確かに」
姉貴の住むマンションは、部屋が広くて景色が良くて交通の便が良くて家賃が高いという、かなり住み心地の良い所だ。
なぜそんな所に住んでいるかといえば、伊集院財閥とタメを張れる大企業に就職したからだ。
どんな会社かよく知らないが、俺なんかじゃどう頑張っても就職出来ないような所らしい。
「じゃあ、誰が引っ越すんだよ」
『私の友達』
へえ、意外と友達思いなんだな。
『の妹。実際に会った事はないけど、可愛い子らしいよ』
「…いつからそんなお人好しになったんだ?」
『それは、どーゆー意味かしら?』
電話の向こう、邪悪な笑みを浮かべる姉貴の顔が見えた。
「いや何でもない。それより何で俺が手伝わなきゃなんねーんだ?」
『そりゃ、引っ越しがあんたと無関係って訳じゃないからよ』
「…は?」
電話の向こう、楽しそうな笑みを浮かべる姉貴の顔が見えた。
そして『姉貴の友達の妹』との再会が、俺にもたらしたものは――。
再会
と
約束
引っ越し先のマンションの前で、夏の日差しがジリジリと肌を焦がす。
正直こういう暑さは嫌いじゃない。湿度が高くなければの話だが。
…この暑さの中、厳選された重い荷物だけを運ばされるのか。
「何で俺が手伝わなきゃなんねーんだ…」
姉貴の友達の妹、つまり俺にとっちゃ完璧な赤の他人だ。
そんな他人の引っ越しを手伝わなくちゃならない理由は…。
「引っ越し先の近所に住んでりゃ、手伝うのが人情だろ」
という訳だ。
近くに住んでるだけで手伝わせる俺の身にもなって欲しい。
まあ、姉貴の友達の妹の引っ越し先は、正確には近所というより俺の…。
「お、来た来た」
姉貴の視線の先、大きなトラックが走って来た。
トラックは俺達の前に停まり、俺はその荷台を見た。
そこには大きなダンボールやタンスといった、いかにも重そうな物も詰まれていた。
姉貴の友達が女だった場合、最悪俺1人で運ぶ事になる。
さすがにそれはないだろうけど、やっぱり男手がもう少し欲しい。
トラックの運転席のドアが開く。
ここからは見えないが、どうか男であって欲しい。
助手席側のドアも開き、中から姉貴の友達の妹が降りてくる。
「あ」
「あ」
俺と姉貴の友達の妹は、互いの顔を見つめ合いながら硬直した。
「…ちょっと、まさか一目惚れとか言わないでよ」
隣で姉貴が何か言ってる。しかしそんな事、今の俺にはどうでもいい。
「何ぃっ! 一目惚れ!? ちょ、ちょい待ちぃー!」
横から知らない男の声がした、姉貴の友達は男だったらしい。男手増えてばんざーい。(んな事もうどーでもいい)
問題は、今俺の目の前にいる奴だ。
互いに状況が理解出来ず、ただただ相手の目を見つめるだけ。
「ちょと、どうしたのよ」
「いったいどうしたんや」
隣で、姉貴と姉貴の友達が何か言ってる。
そして姉貴が俺の名を、姉貴の友達が妹の名を同時に呼ぶ。
「慎吾?」
「ライム?」
信じたくない現実を、同時に突き付けられる。
目の前にいるこいつは他人の空似なんかじゃなく、正真正銘の…。
「ライム! 何でお前が出てくるんだ!?」
「それはこっちのセリフや! 何であんたがここにいるんや!?」
「俺は姉貴に言われて手伝いに来たんだよ!」
「姉貴て、ならお兄ちゃんの友達の弟てあんたなん!?」
「ちょっと待て、姉貴の友達の妹がお前って事は」
俺の脳裏に、最悪の事実が浮かび上がる。
「隣に引っ越してくる奴ってお前かーっ!?」
「隣に住んどる奴はあんたかーっ!?」
俺の住むマンションの隣室、そこにライムが引っ越してきた。
鷹宰学園を卒業して数ヶ月。とある、夏の日の事だった。
1LDKのアパートのリビング、その中央の座卓で俺たちはくつろいでいた。
「へぇー、ライムちゃんも鷹宰学園の卒業生なんだ」
荷物の整理も一段落着き、姉貴はお茶菓子を食べながら言った。
「言うてへんかったか? それにしても橘の弟と友達やなんて、兄ちゃん驚いたわ」
リーガンさんは冷えた麦茶を飲みながら言った。
「こんな奴、友達やないわ」
ライムも麦茶を飲みながら言った。
「つーか、敵だ」
俺は姉貴のコップに麦茶を入れながら言った。
「でもさ、男女別棟の鷹宰学園でどーやって知り合ったの? ライムちゃんも新聞部?」
「ライムは映画研究会やから、新聞部の取材やないか? ずばり、未来のハリウッドスターライムちゃん大特集!」
そういや、ライムってハリウッドスター目指してたんだっけ。
「あんたって真性のシスコンね」
姉貴の呟きに、リーガンさんが反論する。
「何言うとんねん。兄貴たるもの、妹を可愛がらんでどうする?」
「ま、私も慎吾は可愛がってるけどね。あ、慎吾お茶おかわり」
「それにしても、鷹宰学園を卒業してるなんて弟君もやるやないか。俺な、ライムの卒業式じゃ感動して大泣きしたわ」
「うちの弟の場合、マグレで入学してマグレで卒業したよーなもんだしねぇ。ほら慎吾、リーガンに茶ぁ入れな」
「ライムな、鷹宰学園の卒業生ちゅう事もあって、事務所じゃけっこう注目されてんねん。
当然、ファンの男もぎょーさんおるで」
「羨ましいねぇ、慎吾なんか今まで1度もモテたためしが無い。ライムちゃんのコップが空よ、早く入れろノロマ」
俺はライムのコップに麦茶を注ぎながら、ライムにしか聞こえないよう小声で囁いた。
「お前も苦労してんだな」
「あんたもな」
一瞬、俺とライムの間に、ある特定の人間だけに通じる奇妙な友情が芽生えた。
なぜ弟とは、兄や姉の下僕になってしまうのだろう。
ふと、峰央の事を思い出した。あいつも美月の奴隷みたいなもんだった。
花梨ちゃんと野花さんみたいに仲の良い兄弟姉妹って、少ないのかな。
…キョウダイ、か。
………………。
…………。
……。
「ちょ、こぼれるて!」
ライムの声にハッとし、コップに注いでいた麦茶のボトルを離す。
幸い、麦茶は表面張力に挑戦する一歩手前で止まっていた。
「わ、悪ぃ」
…だいぶマシになったと思ったんだけど、やっぱまだ駄目か。
「姉貴。荷物は全部運び終わったし、タンスやベッドも言われた所に運んだろ?
もう男手も必要無いし、俺は部屋に戻るよ」
「唐突ね」
「弟君、どないしたん?」
姉貴とリーガンさんの言葉を無視し、俺はライムの部屋を出た。
そしてすぐ隣、自分の部屋に戻る。
ゴロンとベッドに横になり、何をするでもなくただ宙を見つめる。
ボンヤリと、何も考えずに、抜け殻のように宙を見つめる。
まるで、あの時の俺に戻ったみたいに。
…何やってんだろ、俺。
引っ越しの手伝いやボーっとする時間があるのなら、机に向かって勉強でもしていればいいのに。
最近、そんな努力も無駄なんじゃないかと思う時がある。
俺がどんなに信じていても、本当はもう…。
それならせめて、彼に会ってみたい。
そしてもし、彼も彼女の事を想ってくれているのなら、一緒に花でも添えに行くのも悪くない。
…アホか俺は。今からあきらめて、どうするんだよ。
そうだな、今日はライムと再会して引っ越しの手伝いとかしたし、疲れてるんだ。
疲れてる、だけだ。
少し休めばまた気力が湧いてくるさ。
また頑張れる。
希望が消えた訳じゃないんだから。
絶対にあきらめないって誓ったんだから。
絶対に、あきらめない…。
すぐ近くにいたうちには解った。
一瞬、あいつがすごく悲しそうな顔をしたのを。
「じゃあライムちゃん、うちの馬鹿慎吾と仲良くしてやってね」
「ははは…善処しますわ」
(堪忍な、無理や)
「ライム、寂しくなったらいつでも家に帰って来いや。お兄ちゃん待っとるさかい」
「…解っとるて」
(お兄ちゃんがおる限り、家にはあんま帰りとうないけどな)
お兄ちゃんはトラックに乗り込み、橘さんも助手席に乗った。
「ああ、せやけど兄ちゃん心配やわ。
橘の弟とはいえ、気心の知れたもん同士が隣に住んどったら、やっぱり、なぁ?」
「安心しなよ、うちの慎吾に女を手を出す度胸は無い」
「俺かて弟君を信用してない訳やないんや。せやけど、もしかしたら思うと心配で心配で…。
もしもの時は、橘の弟いうても容赦せんからな」
「OK、そん時ゃ私も手伝うよ」
2人してずいぶんと物騒な話をしている。
ま、あんな奴がどんな目に遭おうとうちには関係無いけどな。
「じゃあライム、何かあったらすぐ俺に連絡しいや」
「困った事があったら、遠慮なく慎吾使っていーから。
でもあいつ勉強頑張ってるみたいだし、あんまり無茶させられても困るけど。
それと、慎吾がライムちゃんに変な事しようとしたら遠慮無く玉を蹴り潰してやりな」
「せやけど、あいつがうちに手ぇ出すなんて有り得へんけどな」
うちの言葉に、橘さんとお兄ちゃんが同時に反応する。
「「何で?」」
「そりゃ、あいつがホ」
…モやから、とは言えへんなぁ。
「…うちの美貌の前じゃあ、どんな男も尻込みしてしまうからな」
「そのとーり! ライムより可愛い女の子なんてこの世に存在しない!」
うちより可愛い男の子はおるかもしれへんけどな。
…そういえば、今頃どうしてるんやろ?
後であいつに訊いてもええんやけど、未練たらしい事しとうないしな。
「おっと、もうあまり時間が無いよ。トラックの延長料取られちゃう」
「ゲッ! ほんならライム、お兄ちゃんもう行くで!」
「じゃ、ライムちゃん。バイバイ」
「ライム! お兄ちゃんはどこにおってもお前の事を想っとるからなぁーっ!」
想わんといて。
「引っ越し手伝どうてくれてありがとな、そんじゃまたな〜」
トラックはゆっくりと走り出し、しだいに速度を上げていった。
トラックが見えなくなると、うちは新しい部屋へ戻った。
…正直、隣にあいつがおると思うと、あんまいい気はせえへん。
ぐ〜、と腹の虫が悲鳴を上げる。
時計を見ると7時を回って、うちは食事を摂ろうと近くの飲食店に行く事にした。
今日は何にしようか、色々店を見て回る。
その中から適当に選んで、うちは店に入った。
「いらっしゃいませー」
うちは早速テーブルに着こうと、店の奥に…。
「お客様。大変申し訳ありませんが、ただいま満席となっております」
「へ?」
「もしよろしければ相席となりますが、よろしいでしょうか?」
う〜ん。ま、しゃーないか。
うちは快く了承し、店員は相席の許可を貰いに他の客の所へ行った。
しばらくすると店員が戻ってきて、席へ案内してくれて…。
「あ」
「あ」
相席するべく向かったテーブル、そこにおったんはあいつやった。
「…奇遇だな」
「…奇遇やな」
店員さんがその場を去ると、うちはあいつの向かいの席に座り、メニュー表を手に取る。
「ここは、学生に人気の大衆食堂でな――」
あいつはソバをすすりながら、独り言のように呟き出した。
「安くて量もある、味も悪くない。俺もよく来るんだ」
「あっそ」
メニューをパラパラとめくり、麺類のページで手を止める。
こいつが目の前で美味そうにソバを食っとるせいで、うちも麺類の物を食べとうなってしもうた。
かといってこいつ同様ソバを注文するのもムカツクし…。
ラーメンにしようか、それとも…?
ふと、あるメニューの名前に目が留まる。そうや、これにしよう。
「すいませーん、注文お願いしまーす」
うちが手を振りながら呼ぶと、店員さんはすぐにやってきた。
「ご注文は?」
「おかめうどん1つ頼むわ」
「おかめうどんですね」
店員は確認を取ると厨房へと姿を消し、うちは何となくあいつの顔を見た。
最初に感じたのは、違和感やった。
「…どないしたん?」
ソバを食う手を止め、うつむいたままドンブリを眺めている。
そのまま微動だにせず、何事かを考え込んでいるようにも見える。
…不気味や。
うちがいぶかしげに見ていると、小さく、あいつの口が動いた。
「亀の入ったうどん…か」
「はぁ?」
なに言うとんのやこいつは。亀の入ったうどん? おかめうどんの事やろか?
こいつ、おかめうどんに亀が入っとるとでも思うとんのか? だとしたらアホやな。
馬鹿にしようと思って口を開いた瞬間、あいつは突然席を立った。
「ごっそさん」
「へ?」
ドンブリを覗くと、まだ少しソバが残っていた。
「なんや、もう食わへんのか?」
「これ以上お前と一緒にいたくないだけだ」
カッチーン。
こいつ、うちが広〜い心で我慢して相席してやっとんのに…。
「せやったらとっとと帰り。こっちもせいせいするわ」
「言われなくても帰るっつってるだろ」
相変わらずムカツク男や。
こんな奴のどこがよかったんやろ?
あいつが店を出るのを見送り、うちは自分の注文した品が来るのを黙って待った。
ちなみに、うちが待っとるのは亀の入ってないうどんや。
食事を終えたうちは、セミの鳴き声を聞きながらアパートへ戻った。
あいつの部屋の前を素通りし、奥にある自分の新しい部屋に入る。
引っ越しの後いうんは、なんや不思議な感じがするわ。
まるで、友達の家に泊まりに来ているような…。
というても、引っ越し初日からホームシックになんかならへんけどな。
鷹宰学園を卒業して実家へ帰り、お兄ちゃんと一緒に暮らしているのは正直辛かった。
少しは妹離れして欲しいわ。
部屋に戻ったうちは何もやる事がなく、とりあえず英会話のテープを聴く事にした。
鷹宰学園を卒業した時、弥生先生からもらった物や。
ハリウッドスターを目指すからには、やっぱ英語が出来んと話にならんからな。
うちはテープをラジカセにセットし、再生ボタンを押し――。
ガシャーンッ! ガタガタッ!
「な、なんや!?」
突如隣の部屋から、あいつの部屋から何かが壊れる音がした。
…ビックリして損したわ。あいつが何を騒いでようと、うちにはどうでもいい事や。
「うるさいでっ! 静かにしぃっ!」
うちは壁に向かって怒鳴り、帰ってくるだろうあいつの文句を待った。
せやけど、いつまで経っても返事があらへん。
…………。
ま、あいつがどうなろうと知った事やないんやけど、放っといて後で何かあったらやっかいやし…。
「しゃーないなぁ」
うちは面倒なのを我慢して、あいつの部屋に向かった。
あいつと違い、うちはなんて心が広いんやろうと自画自賛する。
コンコン、とあいつの部屋のドアをノックする。
「ちょっとぉっ! あんた、何やっとるん!?」
…返事は無い。
あいつの性格からして、何も言い返してこないのはやっぱりおかしい。
まさか、ホンマに何かあったんか!?
「入るでっ!」
うちはドアノブを回し部屋の中に飛び込む。鍵は掛かってない。
リビングに入ると、うつ伏せに倒れているあいつの姿があった。
慌てて駆け寄り、抱き起こし、声をかけようとして、気が抜けた。
「うう…ん…」
顔が赤い。息が酒臭い。つまり、酔っ払って倒れただけ。
右手には空になった日本酒のビンがある。
…心配して損した。
「アホらし…」
うちは肩をガクリと落とし、こんな馬鹿は放っておけばよかったと後悔する。
馬鹿を再び床に寝かせ部屋に戻ろうとした瞬間、足首を誰かに掴まれる。
掴める人間なんか1人しかおらん。
うちは苛立ちながら、酔っ払いの顔を見下ろす。
そいつの瞳に涙が浮かんで、口が小さく動いた。
「行くな…NANA、行くな……」
足首を握る手に、少し力が入る。
「……NANA……」
彼女は力ない微笑を浮かべると、突然俺に飛びつき、唇を重ねた。
勢いがあまったせいで、歯と歯がガツンとぶつかり、ちょっと痛い。
今のキスは『元気と勇気のおまじない』だそうだ。
そして彼女は着替えをすませ、今度は元気いっぱいの笑顔で言った。
――いってきます――
そしてドアノブを回し、部屋から出て、ドアが閉まる。
その瞬間、2度と彼女が戻ってこない気がして、俺は慌てて後を追った。
ドアを開けると、彼女の背中はもう小さくなっていた。
全力で走った。
彼女に追いつこうと、必死で。
何度も彼女の名を呼んだ、けれど彼女はそれに気付かない。
走って、走って、走って…彼女に追いつき、彼女の腕を掴む。
――行くな――
掴んだはずの彼女の腕が、するりと俺の手から抜ける。
彼女は振り返らない。
俺がいる事に気付いてないかのように、ただ前へ前へと歩いていく。
何度も彼女の名を叫ぶ。
突如、彼女の前に白い扉が現れる。
扉の上に『手術室』と書かれていた。
扉が開き、彼女は中へと入っていく。
俺は叫んだ。
彼女は気付かない。
扉が閉まる。
彼女の名を叫ぶ。
「NANAぁっ!!」
ぼやけた視界の向こう、人の顔らしきものがあった。
「NA…NA?」
安堵感が心をよぎり、俺はそっと手を伸ばす。
彼女の頬に手が触れようとした瞬間、彼女がそれを払う。
「寝ぼけんなボケ」
急速に意識が覚醒する。
何を考えてるんだ俺は、こんな奴とNANAを間違えるなんて。
「…なんでお前がここにいるんだ?」
「あんたがうるさいから、文句を言いにきたんや」
「…文句?」
ライムは俺の部屋に来たいきさつを話しだした。
俺が酔っ払って倒れてるのを見て、わざわざ寝室まで運んでくれたらしい。
俺は今ベッドの上に横たわっていて、ライムはベッド横に椅子を持ってきて腰掛けている。
さらに、水と酔い覚ましの薬を用意してくれていた。
「…いつからそんなお人好しになったんだ?」
「うちは生まれた時から慈悲深く優しい心を持っとるんや、あんたとは違う」
「…そうか。で、なんで俺の顔を覗き込んでたんだ? まさか見とれてたのか?」
ライムは呆れた顔をして、ため息を吐いた。
「なに馬鹿な事言うとるんよ。あんたの顔なんか、NANAと比べたらミソッカスや」
NANA…。
「アレはあんたが泣いとったから、つい覗き込んどっただけや」
「泣いて…?」
「そうや、NANA行くな〜とか言うてな」
…うるさい。
「まさかあんた、振られたんか? ま、しゃーないわな。あの学園を卒業したら、晴れて男女交際解禁やし」
「…………」
「やっぱあきらめるんやなかったわ。あんたなんかに、NANAを任せたのが間違い…」
「うるさいっ!」
ベッドから身を起こして叫ぶ。
俺の中の深く暗い場所から、今まで押さえつけていたものが噴き出してくる。
「お前に…お前に何が解るっていうんだっ!!」
誰にも言えなかった言葉。
「お前がNANAの何を知っているっ!? お前が俺達の何を知っているっていうんだっ!!」
誰にも見せられなかった想い。
「NANAが…NANAがどんな想いで鷹宰学園に来たのかっ!」
太陽にも、光にも、弥生先生にも…澪ちゃんにも、美月にも。姉貴にすら言わなかった、言えなかった。
「NANAがどんな想いで俺と暮らしていたのか…」
あの日。
「俺がどんな想いでNANAと暮らしていたのか…」
病院からかかってきた、一本の電話。
「俺が…俺がどんな気持ちでNANAの帰りを待っていたのか…」
悲しみと絶望、後悔の果てに見つけた、儚い希望。
「NANAが、どんな気持ちで手術を受けたのか…」
それすら、今の俺には信じる事が出来ない。
「NANAが…NANAが……」
NANAは、どんな気持ちだったんだろう?
「NANAは…」
瞳に、柔らかい何かがそっと触れる。
「…涙拭き」
…ライム?
…そうか、いつの間にか泣いていたのか。
俺はライムが持っていたハンカチを受け取ると、ゴシゴシと涙をぬぐった。
「…意外、だな。お前が…」
「あんたのためやない」
ライムはさっきと違い、真剣な表情で俺を見つめていた。
「NANA…NANAの事、説明して。入院てナニ? NANAに何があったんよ?」
「それ…は……」
力強い声でライムは言った。
「聞かせて」
――苦しかった。
――誰にも言えなかった。
――どうしてだろう?
――きっと、NANAの秘密を言いたくなかったんだと思う。
――いつか太陽や光には話してもいいと思っていた。
――でも、俺とNANAの2人だけで秘密を共有する事を、俺は喜んでいた。
――本当に誰にも言えないような事なのか?
――神崎家の馬鹿げた言い伝え、NANAに起きた悲劇。
――鷹宰学園に通っていた神崎七瀬の真実。
――実の弟にすら知られていない、神崎七海という女の子の事。
「…話してやるよ、全部な」
なぜか口元が緩む。
「お前なんかに話すなんて、そうとう酔ってるみたいだ」
本当は、誰かに聞いて欲しかった。
NANAも、こんな気持ちで俺に神崎家の事を話していたのだろうか?
「始まりは『お友達発掘サイト Party Party』っていう出会い系サイトの、ある掲示板の書き込みからだ」
話は1時間以上続き、ライムはその間、一言も口を開かなかった。
ライムが口を開いたのは、俺が全てを話し終え、しばらくしてからだった。
「NANAは、ホンマにあんたの事、好きやったんやなぁ」
今までの快活さを失った、疲れ果てたかのような声だった。
やはり、ショックだったんだろう。
…ああ、そうか。
俺が今まで誰にもNANAの事を話さなかったのは、この苦しみを他の人に与えたくなかったからかもしれない。
「…で?」
ライムはうつむいたまま、再び口を開く。
「あんたはあきらめるんか?」
「あき…あきらめるはずないだろ……!」
「嘘。あんたは、もうあきらめかけてる。さっきかて、酒に逃げとったやないか」
「…いつもああな訳じゃない。今日は、ライムに会って…昔の事を思い出しちまったから…」
「そんなん言い訳にならへんわ。あんた、ホンマにNANAが生きとるて信じてるんかっ!?
もし信じとるんやったら、昔の事をちょっと思い出しただけでああはならへんっ!!」
胸の奥がカッと熱くなる。
あの時、あの時は信じていた。
NANAが、生きているかもしれない…と。
けど今は…、今はどうなんだ?
俺は、
「あんたは逃げとるだけや。NANAの事を信じ続ける事に疲れて、逃げとるだけやっ!」
「…そうかもしれない」
今なら素直に認められる。
「確証の無い希望を信じ続けられるほど…俺は強くなかった。だから、自分を偽っていた…」
「フンッ。所詮、あんたはそこまでの男やった訳や」
「…そう、だな」
ライムと話をしていて、よく解った。俺はもう――。
「もう、疲れたよ」
投げやりに放った俺の呟きを聞くと、ライムは苛立たしげに立ち上がった。
「…あんたには、失望したわ」
ライムは俺を睨み付けると、くるりと背を向けた。
…完全に幻滅されちまったな。
いや、どうせ最初から嫌われていたんだ。今さら悔やむ事はない。
「結局…」
ライムは俺に背を向けたまま肩を震わせていた。
「…結局、うちとの約束も守られへんかったんやな」
…約束? 俺は、ライムと何か約束していたか?
ふいに、時間が過去へ引き戻される。
「あんた、ホンマにNANAのこと好きやねんなぁ」
「イッ!?」
「まっ、障害は多いやろうけど、ガンバリや。しっかりNANAを掴んどくんよっ」
「ライム、違っ…」
「あ〜あ。まさか男と男張り合うて負けるやなんて。
舞台がこの学園やなかったら、こうはならなかったと思うんやけど…」
弁解する間もなく、ライムはスタスタと立ち去ってしまった。
「あ…あの…」
「あ…NANA…」
NANAは、無邪気にニッコリと笑って言った。
「アハッ…。なんだかすごくビックリしたけど…。これでよかったのかもね」
よくないに決まっていた。
けど、NANAの笑顔を見て俺は思った。
――しっかりNANAを掴んどくんよっ――
俺は絶対、NANAを離さない。
ライムの言った通り、NANAをしっかり掴んでいよう。
NANAの正体を知らず、けれど真剣にNANAの事を好きだったライムへ対し、俺は心の中で勝手に約束した。
ライムが知るはずもない。俺が勝手に、自分の中だけでした約束だ。
でも――。
もしかしたら、ライムも心の中で俺と同じ事を考えていたのかもしれない。
――これでよかったのかもね――
久し振りに、NANAの本当の笑顔を思い出せた気がした。
「待てよ」
ドアに手をかけ、部屋から出て行こうとしていたライムを呼び止める。
ライムは無言で振り返った。
「俺は、俺はまだ…」
俺は必死に言葉をつむごうとするが、まだ足りない。その先を言う勇気が…足りない。
確証の無い希望を信じ、孤独の中で無駄かもしれない道を歩いていく。
俺は、これからもその道を歩き続ける事が出来るだろうか?
もう1度思いだす、NANAの笑顔。
「俺はまだ、NANAをあきらめちゃいないっ!」
NANAはあきらめなかった。
手術室から必ず生きて帰ってくると、温子さんに言っていたじゃないか。
ずっと一緒にいようと、俺達は約束したじゃないか。
だから――。
「あきらめない…俺は、絶対にNANAを探し出してやるっ!」
俺の中の何かが、熱を持って動き出す。
「あんたが? 無理や、どうせまたすぐにヘバってまうのがオチや」
「そんな事はない!」
俺はベッドから飛び降り、ライムに詰め寄った。
「…確かに、さっきまでヘバってたよ。でもな、思い出したんだよ。NANAとの約束を」
そして…俺が心の中で勝手にしたライムとの約束を。
そんなもの、とても約束なんて呼べやしない。
約束した事を相手は知らないし、約束を破っても誰も文句なんて言わない。
約束とすら言えないような…小さな約束。
「俺は離しちまった…NANAの手を。しっかり掴んでおくと約束したのに、離しちまったんだ…」
「そうや。あんたがNANAをしっかり掴んどけば、NANAは手術なんか受けんですんだかもしれんのに…っ!」
「だからもう2度と離さない。必ずNANAを探し出して、今度は何があろうと、絶対にNANAを離したりはしない!」
ライムは俺の心を覗こうとするかのように、まっすぐ俺の瞳を睨みつけていた。
俺も負けじと睨み返す。互いの視線が真正面からぶつかり、どちらも視線をはずそうとしない。
駄目だ。ここで視線をそらしたら、一歩でも退いてしまったら、もう2度と前に進めない気がする。
ふいに、ライムの口元が緩む。
「解った」
「…へ?」
「何となく解った。NANAが、なんであんたを選んだか」
ライムの笑顔はとても爽やかな笑みを浮かべた。
「やっと気ぃ晴れたわ。男に男取られたゆーより、あんたみたいな馬鹿に取られたのが癪やったんやけど…」
不覚にも、俺は一瞬ライムを可愛いとおも――。
「ま、あんたなら合格や。…ギリギリな」
ギリギリかよ!
途中までシリアスな展開だっただけに、ガクリと肩が落ちる。
「…お前に合否を判定する権利があるのかよ」
「ある」
あるのか。
さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、一瞬でもこいつを可愛いなんて思った自分が馬鹿みたいだ。
「ああ…なんか身体中の力が抜けちまったよ」
「いい事やないか」
へ?
「NANAを探したいんは解るけど、そう気ぃ張ってばかりおったら疲れてまうわ」
…確かに、そうかもしれない。
あの日から俺は、毎日NANAの事を想って生きてきた。NANAを探し出すんだ、NANAを救うんだ、と。
そればかり考えていて、心が休まる時なんて無かったかもしれない。
「…ライム、ありがとな」
「な、なんや急に。気味悪いな」
「ライムのおかげでまた頑張れそうだよ。約束するよ、絶対にNANAの事をあきらめないって」
「そ、そう」
「お隣さんになった訳だし、これからよろしくな」
俺が握手しようと右手を差し出すと、ライムは少し戸惑って、俺の手を握り返してきた。
「こちらこそ、よろしゅうな」
あれほど嫌いあっていた俺達の間に、確かな絆が生まれるのを感じた。
これからライムはただの隣人じゃなく、かけがえのない親友になるかもしれない。
「――ところで」
照れているのか、ライムは恥ずかしげに口を開く。
「あんたの名前って何やったっけ? …その、NANAから聞かされてはいたんやけど、そん時は真面目に聞いてなくて…」
「…………慎吾だよ」
ちょっと疲れていただけだ、少し休んだからもう大丈夫。
また頑張れる。
希望が消えた訳じゃないんだから。
絶対にあきらめないって約束したんだから。
絶対に、あきらめない…。
「あ〜、頭がガンガンする…」
「それは言わんといて〜、余計に痛なるわ…」
2人そろって二日酔いに効く薬を口の中に放り込み、水と一緒に流し込む。
「うう…今日が休みで良かったわ」
「…確かに」
慎吾は同意すると、よろけながらソファーに行きドサリと腰を下ろす。
うちもソファーに向かい、慎吾の横に座る。
そのまま沈黙。頭が痛いから喋りたくない。
…結局、慎吾と和解してからすぐに意気投合し、すぐに2人で酒を飲み始めた。
酒の勢いもあってか、とことん腹を割って話し合い、気が付けば東の空が明るくなっていた。
…そこまでは覚えとるんやけど、その後どうやら寝てしまったらしく、目を覚ますとすでに昼やった。
二日酔いになるまで飲むやなんて、生まれて初めてや。
でも、そのおかげで慎吾と和解出来たんやから、別にいいか。
慎吾はうちに約束してくれた、絶対にNANAをあきらめない…と。
その時、うちはある事を思い出していた。
NANAを慎吾に譲ったあの時、うちはこう言った。
『しっかりNANAを掴んどくんよっ』
ただ、言っただけ。
けれど、うちは心の中で『約束やで』と呟いた。
そんなん、約束でもなんでもあらへん。
うちがそんな事を考えてたなんて慎吾は知らへんし、単なる自己満足のためにしたものや。
もしかしたら、慎吾もうちと同じく心ん中で…って、それはないか。あの頃は互いに嫌い合ってたしな。
「…腹減ったな」
「へ? あ、そうやな。朝食も食うてへんし…」
ふいに呟いた慎吾の言葉に同意すると、慎吾はおもむろに立ち上がった。
「飯、食いに行こうぜ」
「オゴリやろな?」
うちもソファーから立ち上がり、慎吾と並んでドアに向かう。
「お前な、医大生なめんなよ。親父や姉貴に援助してもらってもギリギリなんだよ」」
「せやったら未来のハリウッドスター、ライム様がオゴったるわ」
「ホントか? 助かるよ」
慎吾が笑顔でドアを開け、うち等は一緒に外に出て、固まる。
「「「「あ」」」」
部屋の外には、今まさに呼び鈴を鳴らそうとしている橘さんの姿。
その後ろには、きょとんとした顔でうちと慎吾を見つめるお兄ちゃんの姿。
沈黙の時間が訪れる。
「…慎吾」
沈黙を破ったのは橘さん。
「ライムちゃんがいないから、何か知ってるんじゃないかとお前の部屋に来てみたんだけど…」
気味が悪いくらい爽やかに微笑む橘さんに、うちは恐怖を覚えた。
「どーしてライムちゃんがあんたの部屋にいんのよ? しかも、お互い何か疲れてるみたいねぇ…」
「いや、その、なんだ…。誤解なんだけど…」
「ああ、確かにここは5階だな。階段だと上って来るのにちと疲れる」
「いや、その5階じゃなくてだな…」
「ちょ、ちょい待ちぃっ!」
うちは慌てて叫んだ。
「誤解せんといてくれるっ!? 確かに慎吾の部屋に泊まりはしたけど、別に何も――」
「「泊まったぁっ!?」」
橘さんとお兄ちゃんが同時に叫ぶ。
…あかん、地雷踏んでもうたみたいや。
「泊まったてどういう事やっ!? ラ、ライム…お前まさか!!」
「お、お兄ちゃん落ち着いてっ!」
「慎吾。詳しく説明をしてもらおうか?」
「ああ、ちゃんと説明するから――」
「おのれよくもライムをーっ!」
次の瞬間、お兄ちゃんは慎吾に突撃した。
「うわぁっ!」
慎吾は部屋の奥へ逃げ込み、お兄ちゃんが後を追う。
「待ちぃやこのボケナスっ!」
「だから誤か…グハッ!」
堪忍、ああなったお兄ちゃんはうちでも止められへんのや。
慎吾…死なんといてや。
「…で、ライムちゃん。ホントに何もなかったの?」
「あ、はい。一緒に酒飲んでだだけで…」
「あーそう、良かった」
橘さんは安堵の笑みを浮かべ、慎吾を見て邪悪な笑みを浮かべる。
「アレ、面白そうだから放っておこうか?」
「…助けようとは思わんのですか?」
「死にそうになったら助ける。あいつには医大の受験料やら学費を返済してもらわなきゃなんないしね」
うちのお兄ちゃんと橘さんといい、どうして兄姉ゆーのはこう……はぁっ。
何だかまた頭が痛くなってきた気がして、うちはその場にうずくまった。
こんな調子でNANAを救えるんか…?
「は、話を聞けーっ! 俺はライムとは…うおっ!?」
「問答無用や! 傷つけられたライムの痛み…思い知れーっ!」
「…なんて事もあったな。あの後すっげぇ苦労したよ」
「せやけど、今となってはいい思い出や」
並んで歩きながら懐かしげに呟き、俺達は同時に微笑を浮かべた。
「ま、続きはあんたの家でゆっくり話そや。これでも飲みながら」
そう言ってライムは手に持っていた細長い箱を眼前にかかげた。中身はは上等な日本酒だ。
「今度は悪酔いせんといてよ」
「解ってるって」
微笑を苦笑に変えて応えると、俺はなんとなく空を見上げた。
「……キレイな星空やな」
「ああ、この辺りは空気が澄んでるから」
「いい所やな、向こうじゃこんな星空はそうそう見れへんわ。ま、山とか行けば別やけどな」
「でも良かったな、夢が叶って」
「ま、うちの実力なら当然の事やけどな」
「最初の頃は英語で苦労したくせに」
「うっ……最初だけや」
久し振りの再会のせいか昔話に花が咲き、歩くスピードが遅くなってしまう。
しかし俺の家が目に見える距離まで来ると、自然と歩みが早くなる。
「アレが、あんたの家か」
「そんなに大きくはないけど、住み心地はいいんだ」
「いい家やな」
今のライムにとって、俺の家なんかうさぎ小屋みたいなもんだけど。
「楽しみやな、内緒にしとるんやろ?」
「ああ、内緒だ」
ニヤリ、と俺達は笑みを浮かべる。
ホント、楽しみだな。いったいどんな顔をして喜ぶだろうか?
ライムも、今以上に嬉しそうな笑顔を浮かべるに違いない。
もちろん、俺も。
自宅に到着し、ドアノブに手をかけて開けようとした瞬間。
「慎吾」
ふいに、ライムが口を開く。
「ありがとな。うちとの約束、守ってくれて…」
「いや、俺の方こそ。ライムがいなけりゃ、あきらめちまってたかもしれない」
俺達が今こうして一緒にいるのも、あの約束とすら言えないような小さな約束のおかげかもしれない。
そして、あの日ライムと交わした新しい約束。
絶対にあきらめないという約束。
…ま、過去に浸るのはこれくらいにしておこう。
俺はドアを開け、大きな声で言った。
「ただいまー」
その直後、パタパタとこちらへ向かってくる足音と共に、嬉しそうな返事が返ってきた。
「おかえりなさいっ!」
彼女達の再会まで、あとちょっと。
今回のヒロインはライムです。
慎吾君とライムは、NANAの件がなければ普通に友達になれたかもしれません。
性格的にも気が合いそうなんじゃないかな、と思います。
多分、慎吾君と美月に似たノリになるんでしょうけど……。
SUMI様