WISH STAR 〜人魚姫の願い事〜



 あとほんの数10秒。
 その時が来るのを、私は縁側で星空を眺めながら待っています。
 ふと視界の端で何かがキラリと輝いた気がしました、流れ星でしょうか?
 子供の頃は信じていました。流れ星に願い事をすれば、それが必ず叶うと…。
 もし流れ星が本当に願いを叶えてくれるなら、私は何を願うのでしょうか?
 正直自分でも解りません。
 でも恐らく、私が願う事は――。
 ボーン、ボーン、ボーン…。
 柱時計がその時を告げるため、鐘の音を12回鳴らしました。
 今日が昨日になり、明日が今日になります。
 今日は7月29日、神崎家の跡取りである七瀬の誕生日。
 …そして、七海の誕生日でもあります。





WISH STAR
〜人魚姫の願い事〜







「どうしたの?」
 と私が声をかけると、七海はきょとんとした顔で見つめ返してきました。 
 朝食のお味噌汁を手に持ったまま、首をかしげて訊ね返してきます。
「どうしたの…って、何が?」
「なんだか最近、七海に元気が無いように思えて…」
 七海の瞳が一瞬見開き、すぐに元どおり何でもないような表情を作りました。
「や、やだなぁ温子伯母さんったら。私は元気だよ! ホラ、ご飯だってちゃんと食べてるし…」
 そう言って七海は残っていたお味噌汁を流し込み、続いてご飯をパクパクと口に運んで、
「…むぐっ!?」
 喉につまらせたようです。
 コップを手に取り中が空だと気づき、慌てて急須を手に取りコップにお茶を注ぎ、勢いよく飲み干します。
「大丈夫?」
 私は七海の隣に座ると、背中をさすりながら顔を覗き込みました。
 少し涙目になっていますが、呼吸はしっかりとしています。
「だ、大丈夫…」
 七海は私を安心させようと思ったのか、無理に笑顔を作ります。
 でもしばらくすると、その笑顔に悲しみの色が浮かび出しました。
「…七海?」
「数日前から」
 少しかすれた声で、七海は小さく呟きました。
「…数日前から、慎吾君…メールの返事、来なくなって……」
 その言葉を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んでしまいました。
 七海にとって、慎吾さんとのメールがどれだけ大切だったか…私は知っています。
 ネットを通じて初めて外界と接した時の、七海の笑顔。
 私は一生、あの笑顔を忘れる事はないでしょう。
 そして、2人のメールフレンドを失った時の悲しみにくれた顔も。
 けれど唯一、橘慎吾さんだけは七海とのメールを続けていてくれたというのに。
 慎吾さんからのメールが届くたび、七海がどんなに喜んでいたか。
 本当に嬉しそうに、私に慎吾さんの事を話してくれました。
 七海の話でしか知らないのだけれど、慎吾さんはとても優しい人だと私も思っています。
 なのに、急にメールが途絶えてしまうなんて…。
「きっと、慎吾さんには何か事情があるのよ。返事を書きたくても書けないような…」
「…うん、でも…でも……」
 何とかして七海を慰めて上げたかいと強く思いはしたものの、私にはどうする事も出来ません。
 少しでも七海が不安を忘れられるよう、私はそっと七海を抱きしめました。
 七海はしばらく私の胸に顔をうずめ、小さな嗚咽を漏らしていました。
 …もし、このまま慎吾さんからのメールが来なかったら……。
 七海同様、私の心にも不安が満たされます。
 どうか慎吾さんからのメールが、1分1秒でも早く届きますように…。
 私がそう思っていると、七海はゆっくりと私の胸から顔を離しました。
「…あの」
 七海は私の顔を見上げ、まだ少し涙で潤んだ瞳で見つめてきました。
「今日は…その、どこにも行かないで…私と一緒にいて欲しいな」
 私も同じ気持ちです。
 七海がこれ以上寂しい思いをしないよう、七海の側にいたいと痛烈に思いました。
 けれど、
「ごめんなさい。今日は…ちょっと用事があって、出かけなければならないの」
 七海は一瞬悲しそうに眉根を寄せましたが、すぐに笑顔を作りました。
「…そっか。それじゃあ、しょうがないよね」
 私の心は申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
 メールが来なくて不安でしょうがない七海に、寂しい思いをさせなくてはならないのですから。
「お昼までは一緒にいて上げられるから、その間、私にして欲しい事があったら何でも言ってちょうだい」
 七海は少し悩み、うつむいて、恥ずかしそうに言いました。
「じゃあ…その、絵本……読んでもらいたいな」
「絵本?」
 七海の意外なお願いに、私は思わず首をかしげてしまいました。
 離れを出てしまい、神崎家の双子の話をしてからというもの、私は七海に外の世界の物をたくさん与えました。
 普通の子が読むような漫画や小説、勉強に使う参考書など、本だけでも何冊読んだのか解りません。
 そうした本を読むようになってから、七海は幼い頃読んでいた絵本のたぐいを、まったく読まなくなりました。
 無論、絵本に飽きたという訳ではないでしょう。
 新しく持ってきた本の数々の方が、七海にとって魅力的だったのですから。
 それなのに、どうして今絵本なのでしょうか?
「あのね…昔みたいに、温子伯母さんに読んでもらいたいの。
 さすがにもうお膝に座って読んでもらう訳にはいかないけれど…いいかな?」
「ええ、もちろんよ」
 七海が何を思って絵本を読んでもらいたいと言ったのか、私には解りません。
 けれど、それが七海の願いなら。
 それで七海の不安が少しでも癒されるなら、私は何冊でも絵本を読んで聞かせて上げたいと思いました。
 中断していた朝食を終えた後、七海は1冊の絵本を持って来ました。
『人魚姫』
 それが私に読んでもらいたい絵本でした。






 深い海の底に、とても美しい歌声を持つ人魚姫がいました。
 15歳の誕生日を迎えた人魚姫は、生まれて初めて海の上に出る事を許されました。
 海の上には一隻の船があり、そこでは人間たちがパーティーを開いていました。
 人魚姫が船に近づくと、船から海を眺める美しい王子様がいました。
 人魚姫は一目で王子様に心を奪われ、恋に落ちてしまいます。
 しばらくすると船は嵐に襲われ、沈んでしまいました。
 人魚姫は溺れた王子様を助けると、近くの海岸まで連れて行きました。
 海岸に人間の娘がやってきたので人魚姫は岩陰に隠れると、娘は気を失っている王子様に気が付きます。
 王子様は娘に助けられ、元気になりました。
 海に戻った人魚姫は、毎日毎日王子様の事を思い続けます。
 すると人魚姫の姉たちが、魔法使いに頼んでみてはどうかと言いました。
 人魚姫は渦巻きや暗い洞窟を抜け、魔法使いのもとを訪れました。
 魔法使いは人魚姫の美しい声と引き換えに、人間になる薬を渡してくれました。
 そして人魚姫が人間になったとしても、王子様に愛されなければ海の泡となって消えてしまうと言いました。
 それでも人魚姫は人間になる薬を飲み干し、あまりの苦しさに気を失ってしまいました。
 人魚姫が目を覚ますと、海岸で王子様に抱きかかえられていました。
 人魚姫の尾は、人間の足に変わっています。
 王子様は言葉の喋れない人魚姫をお城に住まわせ、とても優しくしてくれました。
 人魚姫は歌う事も想いを伝える事も出来ませんでしたが、とても幸せでした。
 ところがある日、王子様は隣の国のお姫様と結婚する事になります。
 そのお姫様は、海岸で王子様を助けた人間の娘でした。
 2人の結婚祝いが船の上で開かれ、人魚姫は1人で海を眺めていました。
 このままでは人魚姫は海の泡となって消えてしまいます。
 すると海の中から人魚姫の姉たちが現れました。
 姉たちは自分の美しい髪と引き換えに、魔法使いから人魚姫が助かる方法を訊いてきたのです。
 姉たちは人魚姫に1本の短剣を渡し、王子様を刺すように言いました。
 人魚姫は王子様の寝室に忍び込み、短剣を王子様めがけて振り上げました。
 しかし人魚姫は、どうしても愛する王子様を刺す事が出来ません。
 人魚姫は短剣を捨てて海に飛び込み、泡となって消えてしまいました。






 病室に入ると、ベッドの上に七海とうりふたつの男の子が本を読んでいました。
「温子伯母さん…? 来てくれたんですか」
「こんにちは七瀬、お誕生日おめでとう」
 七瀬はなぜか一瞬戸惑った表情をし、すぐに笑顔で迎えてくれました。
「あ…ありがとう」
 照れているのか、七瀬の頬はわずかに赤く染まっています。
 どうやら私が来る事が意外だったようです。
 確かに普通の家庭では、伯母がわざわざ甥の誕生日にお祝いに来る事は少ないでしょう。
 けれど私は七海の事もあり、七瀬とはよく話をします。
 もしかしたら、妹より七瀬と親しいかもしれません…。
 だから私が来る事は、それほど不自然ではないように思えます。
 ふいに、七瀬の顔が曇りました。
「誰も」
 唇が小さく動き、とても寂しそうな声が漏れます。
「誰も来てくれないかと思ってました…」
 誰も来てくれない? 私は思わず首をかしげました。
 妹はお医者様の許可を取り、今日のためにケーキを作っていたはずです。
「父さんなら仕事で来られません。母さんも、父さんの仕事の事情で…一緒に行っているはずですから。
 ああ、プレゼントとケーキならもらいましたよ。宅配便が届いてそこのテーブルの上に。
 参考書だそうです、入院中も勉強をしろと」
 そんな。
 自分の息子が入院しているというのに見舞いにも滅多に来ず、誕生日にすら訪れないなんて…。
 義弟は、七瀬の事を神崎家の後継者としてしか見ていないのでしょうか?
 義弟に逆らえない妹の事も残念です。
 七瀬の誕生日を、とても楽しみにしていたというのに…。
「…ごめんなさい。つい、愚痴を漏らしてしまって…」
「気にしなくていいのよ」
 私はベッド横の椅子に腰掛け、カバンから包装紙に包まれた箱を取り出しました。
「はい、あなたの誕生日プレゼントよ」
「ありがとうございます」
 七瀬はどこか恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑うと、プレゼントを大切そうに受け取りました。
「わぁ、何が入っているんだろう?」
「新しいお洋服よ」
 七瀬は一瞬眉根を寄せましたが、すぐに笑顔を浮かべました。
「…ありがとうございます」
 その笑顔は無理しているように感じられ、辛そうでした。
「どうしたの? 何だか元気がないみたいだけれど…お医者さんを呼ぼうかしら?」
「あ、いえ、その…」
 七瀬は席を立とうとした私を慌てて静止し、気まずそうに言いました。
「病院では、ずっと入院服だから…せっかくもらっても、着る機会がないかもしれないと思って…」
 そうでした。入院患者は看護しやすいよう、脱がせやすいガウン状の入院服を着る事になります。
「でも、退院したら七瀬の好きな格好をすればいいのだし。それまでのお楽しみにしましょう」
「…そう、ですね。退院したら…」
 きっと、七瀬は分かっているのでしょう。
 もう2度と、病院から出る事が出来ないかもしれないと。
 このままドナーが見つからなかったら、七瀬は…。
 私はなんと愚かなのでしょう?
 よかれと思ってした事が、逆に七瀬を傷つけてしまったなんて…。
「ああ、でも、看護婦さんに頼んで、病院内でも着せてもらえると思いますよ」
 七瀬は私を気遣ってか、優しく声をかけてくれました。
 私の方が慰められるなんて、すっかり立場が逆になっています…。
「どんな服が入っているか、見てみてもいいですか?」 
「ええ、もちろんよ。あなたの物なんですもの」
 七瀬は包装紙を破らないよう丁寧に取り去ると、中から出てきた白い箱を開けました。
 中から出てきたのは黒のタンクトップとゆったりとしたトレーナー。それに長めの短パン。
「七瀬に似合うんじゃないかと思って買ってきたのだけれど…どうかしら?
 タンクトップとトレーナーはセットで、暑い時はタンクトップだけ、寒い時は両方着るようになってるの」
 七瀬は、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべてくれました。
「ありがとうございます。とても素敵な服ですね、着るのが楽しみです」
 見ているだけで幸せな気持ちになるような、無垢な笑顔。
 七海の笑顔と、とてもよく似ていました。
「あ」
 七瀬の表情が突然驚きに変わると、ベッドの下に向けて手を伸ばそうとします。
 その手の先を目で追うと、一冊の本が床に落ちたところでした。
 私が来る前に七瀬が読んでいた本のようです。
 私はしゃがんで本を拾うと、それを七瀬に手渡しました。
「はい」
「あ、ありがとうございます…」
 七瀬は何の本を読んでいたのでしょう? 表紙を覗き込むと『アンデルセン童話集』と書かれていました。
 アンデルセン。今日七海に読んで聞かせた、人魚姫の作者の名前です。
「あの、これは…昔絵本を読んでもらった事を思い出して、ちょっと読んでみようかと…」
 七瀬は照れているのか、頬を染めてうつむきながら話しました。
 もうすっかり大きくなったというのに、童話を読んでいた事が恥ずかしいと思ってしまったのでしょうか?
「どんなお話を読んでいたの?」
 何気なしに訊いてみると、七瀬は少し戸惑って答えました。
「その…『人魚姫』を読んでいました」
 人魚姫?
 何という偶然でしょう。
 ついさっきまで七海に読んで聴かせていた人魚姫を、七瀬もまた読んでいたなんて。
「おかしいでしょうか? 子供が読むような童話を、この歳になって読むだなんて…」
「そんな事はないわ。素晴らしいお話だからこそ、今の時代でも読まれているのだから」
「…ええ、確かにそうですね。でも、とても悲しい物語です…」
 七瀬は視線を落とし、瞳の光が曇りだします。
「…七瀬?」
「…人魚姫は、声と引き換えに自分の望みを叶えてもらいました。
 結局人魚姫は王子様と結ばれず、海の泡となって消えてしまいましたが…ボクは、彼女を羨ましいと思いました」
 羨ましい? 王子様への想いが通じず、泡となって消えてしまった人魚姫が?
「ボクは…人魚姫のように、特に会いたい人がいる訳ではありません。
 でも人魚姫が人間の足を求めたように、ボクも健康な身体が欲しいんです…。
 たとえ、人魚姫のように…自分の大切な何かと引き換えにしたとしても。
 健康な身体を手に入れて…外に出たいんです。病院の外へ、神崎家の外へ…」
 そこまで話し、七瀬はハッとして私の顔を見上げます。
「す、すみません…変な話をしてしまって…。その、今ボクが話した事は、気にしないでください…」
 その時、私はどんな顔をしていたのでしょう?
 様々な感情が、私の中で渦巻きます。
 七瀬は身体だけではなく、心も病に侵されているのかもしれません。
 ずっと神崎家という檻に閉じ込められ、今は病院に閉じ込められる日々…。
 私は七瀬が哀れでたまりません。
 どうして七海も七瀬も、こんな思いをしなくてはならないのでしょうか…?






 私は切符を買うと、神崎家へ帰るための電車が出るホームへ向かいました。
 夏休みのせいか人が多く、私は人にぶつからないよう注意しながら歩きました。
 胸に小さな白い箱を抱きしめながら。
 この箱の中にある、とても大切な物を守りながら。
 これは私の自己満足でしかないのかもしれません…。
 けれど、これを持って帰れば七海はきっと喜ぶでしょう。
 あの子の笑顔を思い浮かべたとたらつい嬉しくなり、自然と歩調が早まります。
 誰にも祝ってもらえないあの子に、少しでも幸せを与えて上げたい。
 この幸せの小箱を届けて上げたい。
 私は階段を上ろうと足を上げ、胸にしっかりと抱きかかえた箱に目を下ろし、再び視線を上げると、視界の端に人の肩。
 それに私の肩がぶつかり、私は身体のバランスを崩し、背中から重力に引っ張られます。
 瞳に写るのは、白い天井。
 このまま倒れたら、背中から地面に叩きつけられてしまうのでしょうか?
 私はそんな事を他人事のように考えながら、胸の箱を守ろうと腕に力を込めました。
 受身をとる事よりも、この箱の方がずっと大事なのですから。
 この箱の中にある、七海の幸せを壊したくない――。
 私は迫り来るだろう背中からの衝撃を覚悟し、瞼を強く閉じました。
 そして数瞬後、背中に訪れたのは暖かい人のぬくもりと、やわらかい何かを通しての衝撃。
「ぐぅっ…!」
 背中から誰かのうめき声が聞こえ、私は瞳を開きました。
 相変わらずそこには白い天井があり、そこに1人の女の子の顔が入り込みます。
「す、すみませんっ! お怪我はありませんかっ!?」
 可愛らしい女の子です。歳は七海と同じくらいでしょうか?
 額よりやや上の位置に白のヘアバンドを着けた、おかっぱ頭の快活そうな女の子。
 眉にしわを寄せ、心配そうに私の顔を覗き込んでいます。
 どうやら、彼女が私と肩のぶつかった相手のようです。
「え、ええ。大丈夫です…」
 彼女が私の肩に手を回して抱き起こしてもらい、私は腕の中に抱きかかえられた白い箱を確認します。
 やや箱が歪んでいますが、中の物は無事なようです。
 ホッと息を吐き、背後で誰かが咳き込んでいる事に気づきます。
 もしや、私が倒れた時に誰かが下敷きに?
 振り返ると、仰向けに倒れている若い男性。
 彼もまた七海と同じくらいの年齢で、少し長めの黒髪が瞳にかかっていています。
「ちょっと、あんたも大丈夫?」
 おかっぱの女の子がぶっきらぼうに、けれどわずかに優しさを含めた口調で男性に話しかけました。
「バッグ、背中に背負ってたから…何とか、な……」
 彼は途切れ途切れに言葉をつむぎ、ゆっくりと起き上がります。
「それより、そっちは大丈夫か?」
 そっちが何を指すのか一瞬解りませんでしたが、彼の瞳が髪越しに私を見つめている事に気づきました。
 彼は偶然私の下敷きになったのではなく、私をかばってくれたようです。
「はい、私は大丈夫です…。あの、助けていただいてありがとうございました」
「そりゃ良かった」
 彼はニッと笑みを浮かべると、おかっぱ頭の女の子に向き直ります。
「お前なー。急いでるのは解るけど、もう少し気をつけろよ」
「だ、だって仕方ないでしょっ? 次の電車まであと……って、ああっ! 時間っ!」
 彼女は慌てて彼の腕を掴むと、そのまま私が乗る電車とは逆方向に走り出しました。
「ちょっ…待て、まだ息が…」
「何言ってんのっ!? あたしは1つ後の電車でいいって言ったのに、あんたが急ぎたいって言うから――」
「だったらお前だけ後の電車にすりゃよかっただろうがっ!」
「うるさいっ! だいたいせっかくの夏休みに何でわざわざ学校戻んなきゃ――」
「じゃあお前は家にいりゃいいだろっ! 俺はただ寮に帰ってメー…ゲッホゲホッ! 呼吸、が…」
 2人は互いに文句を叫びながら、そのまま走って姿を消してしまいました。
 彼等は喧嘩していたのでしょうが、私にはとても仲が良さそうに見えました。
 恋人同士なのでしょうか?
 相手に対しまったく遠慮のない、本音で語り合える関係というのはとても素晴らしいものです。
 七海も、あんな風に慎吾さんと仲良く出来たら…。
 一瞬そんな事を考えた自分がとても愚かに思えてしまいました。
 七海は慎吾さんに会う事すら、絶対にありえないというのに…。
 私は2人が人ごみに紛れて姿を消した後も、彼等の走り去った方をしばらく見つめていました。






「おかえりなさいっ!!」
 とても嬉しそうな声と笑顔で七海は言いました。
 よほど私の帰りを待ちわびていたのでしょうか?
「ただいま」
 そう応えて、私は部屋の中央にある座卓に向かい、ノートパソコンの隣に白い箱を置きました。
 座卓の上にはノートパソコンの他に、何冊かの本が置いてあります。
 ノートパソコンの画面を見ると、七海のメールボックスが開いていました。
 ……きっと、彼からのメールを待っていたのでしょう。
「温子伯母さん、その箱はなぁに?」
 七海は興味津々といった顔で、私と白い箱を交互に見つめています。
「何だと思う?」
「ん〜、解らない」
 私は座布団に腰を下ろし、七海も私の隣に座ります。
「あ」
 そこで七海はノートパソコンをつけっぱなしだった事に気づいたらしく、慌てて折りたたみます。
 電源は、つけたままで。
 きっと私に知られたくなかったのでしょう、ずっと彼からのメールを待っていた事を。
「え〜と…その、この箱には何が入っているの?」
「知りたい? じゃあ、開けてみましょうか」
 私は箱の上をゆっくりと開き、七海は身を乗り出して中を覗き込みます。
 白い箱の中から現れたのは、同様に真っ白な2切れの…。
「ケーキだっ! これ、私が食べていいのっ!?」
「もちろんよ」
 私が答えると、七海はさっそくお皿やフォークを取りに行きました。
 そして2切れのケーキを1つずつ分け、私と七海は一緒にケーキを食べ始めます。
「美味しい〜。ケーキなんて、本当に久し振り」
「アラ? そうだったかしら」
「うんっ! いつもはお饅頭みたいな和菓子が多いもの」
 そういえば、そうだったかもしれません。
 子供の頃から和菓子が多かったせいか、七海に出すおやつも和菓子が多くなっていたのでしょう。
「それにしても、どうして今日はケーキを買ってきてくれたの?」

 それは、あなたの誕生日だからよ。

「今日は七海に寂しい思いをさせてしまったから…そのお詫びよ」
「そんなぁ…お詫びだなんて、でも嬉しいな。それにこのケーキ、何だかあったかい感じがしてすっごく美味しいっ!」

 それは、あなたのお母さんが作ったお誕生日のケーキだからよ。

「有名なケーキ屋さんで買った、特別美味しいケーキですもの。きっと七海の口に合うと思って…」
「ありがとうっ! 温子伯母さんっ!!」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の中に喜びと悲しみが駆け巡ります。
 この子は知らない、今日が自分の誕生日だという事を。
 今食べているケーキが、自分の母親が作ったケーキだという事も。
 あなたの双子の弟もまた、このケーキを食べていたという事も。
 何も知らない。
 真実を教えようと思えば教える事は出来るでしょう。
 けれど、私にその勇気はありません。
 もし真実を教え、より心の傷を深くしたら?
 七海が何を考えているのか、何を思っているのか、私には解りません。
 もしかしたらこの離れに隔離されている事を、私が思う以上に辛く思っているのかもしれません。
 いつも見せてくれる幸せそうな笑顔の裏で、もしかしたら涙を流しているのかもしれません。
「どうしたの?」
 今朝、私が七海に問いかけた言葉とまったく同じ言葉で、七海が声をかけてきました。
「どうしたの…って?」
「温子伯母さん、何だか悲しそうな顔をしていたから…」
 どうやら私は物思いにふけっている間に、つい感情を表に出してしまったようです。
「ちょっと考え事をしていただけだから…心配しないで」
 せっかく楽しい雰囲気になっていたというのに、私のせいで…。
 自己嫌悪にかられましたが、私はせいいっぱい笑顔を作りました。
「さあ、まだケーキは残ってるわよ。早く食べましょう」
 少しでも七海が、幸せな誕生日を送れるように…。






 ケーキを食べ終わると、七海は気持ち良さそうに背伸びをして、そのまま畳に寝転がりました。
「七海。食べてすぐ寝てしまうと、牛さんになっちゃうわよ」
「い〜の、ちょっとだけだから」
 私は苦笑を浮かべながら、七海の幸せそうな顔を見て満足していました。
 ふとノートパソコンの方を見ると、その横に置いてある本に気づきます。
 何の本でしょう?
 七海が嬉しそうにケーキを食べているのを見ていたので、本の事などたいして気にしていませんでした。
 何気なしに本を手に取り、表紙を見ます。
 そこには美しい人魚の絵が書かれていました。
 今朝七海に読んで聴かせた、人魚姫です。
「あ、それは…」
 七海は慌てて起き上がると、私の手から人魚姫の絵本を奪い取りました。
「七海?」
 私は七海の行動の意図が解らず、いぶかしげに七海を見つめました。
「私がいなくなった後も、その本を読んでいたの?」
「う、うん…」
 悪戯をして母親に怒られる子供のように、七海はなぜか怯えていました。
「七海、いったいどうしたの?」
 突如七海の瞳が潤み、白い頬に涙が流れます。
 七海はなぜ泣いているのでしょうか?
「七海…どうして泣いているのか私に教えてくれないかしら?」
「そ、それは…」
 七海は震える声で告白を始めました。






 私、人魚姫に自分を重ねてしまったの。 
 絶対に思っちゃいけないような事を、私は思ってしまったの…。
 人魚姫は王子様の事がすごく好きで、大切な声と引き換えにしてまで王子様に会いに行って…。
 もう2度と歌う事が出来なくなっても、それでも王子様に会いたくて。
 結局人魚姫は王子様と結ばれず、海の泡になって消えてしまったのだけれど…。
 私、すごく人魚姫が羨ましいと感じたの。
 私も慎吾君と会うためなら、声を失ったってかまわないって思った。
 ううん、声なんかよりずっと大切なものと引き換えにしてでも、慎吾君に会うためなら惜しくないわ。
 もう2度と…絶対にお外に出たりしないって約束したのに。
 なのに私は、外に出て慎吾君に会いたいって思ってしまった…。
 こうしてインターネットをしているだけでも、十分すぎるくらいに良くしてもらっているというのに。
 慎吾君とメールをしているだけでも、とっても幸せだというのに…。
 私、とっても欲が深い悪い子になっちゃった。
 だからバチが当たって、慎吾君からメールが来なくなっちゃったんだ…。






 私はハンカチで七海の涙を拭うと、今朝したように七海を抱き寄せました。
 気を緩めると、私自身の頬にも涙が流れてしまいそうです。
 何とか七海を慰めようと口を開き…何事も言葉を発せぬまま閉ざします。
 どう声をかければいいのか、どう慰めればいいのか、私には一向に解りませんでした。
 今はただ、七海を優しく抱きしめるだけ。
 …どれだけの時間、そうしていたでしょうか?
 七海の嗚咽もおさまりだし、私がホッと息を吐いた瞬間でした。
 座卓の方で、何かの電子音が鳴りました。
 七海はきょとんとした顔で座卓に視線を向け…いえ、座卓の上のノートパソコンに目を向けました。
 そう、今の音は、メールの着信音です。
 七海は大慌てでノートパソコンに駆け寄りメールボックスの確認をし、「あ」と小さく声を漏らします。 
 しだいに七海の瞳が見開き、そして今日何度も見た七海の笑顔がかすむほどの、飛び切りの笑顔を浮かべます。
「き、来たっ! 来たよっ! 慎吾君から…慎吾君からメールが来たよっ!!」
 私は慌てて七海の隣に駆け寄り、パソコン画面を見ます。
 メールの発信者の名前は、橘慎吾。
「間違いないよねっ!? これ、慎吾君からのメールだよねっ!?」
 瞳にさっきとは違う涙をにじませながら、七海は私に問いかけました。
「ええ、間違いないわ。慎吾さんから、あなたにメールが届いたのよ」
 七海はまだ信じられないとでもいうように、何度も何度もメールの差出人を確認します。
 そして私に抱きついて喜び、私も心から幸せな気持ちになる事が出来ました。
 七海は、とても幸せそうに笑っていました。






『ヤッホ、慎吾です。
 NANAちゃんがいっぱいメールをくれてたってのに、全然返事を返せなくてゴメン。
 しかもこっちに何かトラブルがあったんじゃないかって、心配もかけちゃったみたいで。
 これには深いような深くないような事情があるから、聞いてくれないかな。
 実は鷹宰学園でも夏休みが始まって、俺は実家に帰っちまってたんだ。
 実家にはネット環境がないから、NANAにメールを送れなかったって訳。
 携帯電話でもあればメールを送れたんだけど、校則で禁止されてるから携帯も持ってないし。
 ホントは、実家に帰るからしばらく返事が出来ないってメールを送るはずだったんだけど…。
 実家に帰る前日にメールの本文を打ち終わった時、もう夜中になってたんだ。
 そんな時間にメールを送るのもどうかと思って、翌日の朝にでも送ろうと思ったんだけど、
 次の日寝坊しちまって、幼馴染みと一緒の電車に乗る予定だったから慌てて寮を出て…。
 つまり、メールを送るのを忘れてたって訳。
 本当にごめん。
 それを今日の朝に思い出して、慌てて寮に帰ってきたんだ。
 いきなりだったから寮に戻る支度もしてなかったし、何故か幼馴染みも一緒に戻るって言い出して…。
 それで時間を食っちまったんだけど、さらに駅でトラブルにあって電車に乗り遅れて…。
 寮に着いたら着いたで、寮のおばちゃんが虫退治の薬を寮に撒いてて入れなくって…。
 そんなこんなでこのメールを送るのも遅くなっちまったけど、ゴメンな。
 今日からはまた寮で暮らすから、毎日NANAとメール出来るよ。
 スポーツ特待生の友達も学園で部活やってるから、寮で1人って事にもならないし。
 他にも何人か実家に帰らず寮で夏休みを過ごす物好きもいるしな。
 俺もその物好きの1人って事だ。
 またメール送るから、これからもよろしく頼むよ。
 NANAちゃんからのメールも楽しみに待ってるよ』






 あとほんの数分。
 その時が来るのを、私は縁側で星空を眺めながら待っています。
 慎吾さんからのメールを受け取った七海は、何度も何度もそのメールを読み返しました。
 読み直すたびに、そのメールの感想を私に言って聞かせるのです。
 これからもメールが続けられるんだと、とても喜んでいました。
 慎吾さんからのメールが、七海にとって最高の誕生日プレゼントだったようです。
 七海が心の底から喜ぶようなプレゼントを贈る事が出来なかった私にとって、
 慎吾さんからのメールは妬ましくもあり羨ましくもあります。
 そして、とても感謝しています。
 本当に七海にとって、最高の誕生日プレゼントでした。
 …誕生日プレゼント?
 そこで私はある事実に気づき、落胆します。
 私は七海に、誕生日プレゼントを贈っていませんでした。
 いくら七海に誕生日の事を知らせていないとはいえ、プレゼントを贈るくらい問題ないはずです。
 それなのに私がした事といえば、妹のケーキを届けただけ…。
 それはあくまで妹のケーキ、私のプレゼントではありません。
 もし七海に誕生日プレゼントを贈った事が義弟にしられたら…とは思うのですが、それでも何か贈るべきでした。
 後悔のため息を吐き、うつむいて地面を見て、しばらくそうした後、気を取り直そうと夜空を見上げます。
 宵闇を駆ける、一条の光。
 それが流れ星だと頭で理解する前に、私は咄嗟に立ち上がり心の中で叫びました。

 ――どうか七海の願いを叶えてください――

 一瞬の閃光はやはり一瞬で消え失せ、そこにあるのはいつもと同じ星の海。
 流れ星などなかったかのように、静かに星々が瞬いています。
 私はしばらく星を眺めながら、流れ星に他の人の願い事を頼むなんて、変な話だと思っていました。
 そして、七海の願いは何だろうと思いました。
 これからもずっと、慎吾さんとメールを続ける事でしょうか?
 確かにそれも七海の願いでしょう。
 しかし、今日はっきりと解りました。
 いえ…本当はもうずっと前から解っていて、気づかない振りをしていただけかもしれません。
 七海の願い事、それは――。
 それは決して叶う事のない願い。
 私も七海も神崎家の人間である以上、決して逃れられない運命。
 叶わないと解っているのに、あきらめなくてはならないと思っているのに、それでも願わずにはいられません。
 もし…七海の願いが叶うなら。
 七海が慎吾さんに出会う事が出来るのなら、どんなに…。
 止まらない思考の渦。
 何度も思い、願い、否定する悲しい連鎖。
 何度繰り返しても答えは出ず、また何も変わらない日々に飲み込まれていく。
 けれど、けれど…。もしも願いが叶うなら。
 あの流れ星が、哀れな人魚姫の願いを聞き届けてくれるなら――。
 ボーン、ボーン、ボーン…。
 柱時計がその時を告げるため、鐘の音を12回鳴らしました。
 今日が昨日になり、明日が今日になります。
 双子の誕生日が終わりを迎えます。
 それと同時に、無限に続くかと思われた思考の渦も止まりました。あくまで、一時の事ですが。
 そろそろ夜も更けてきました、私ももう寝る事にしましょう。
 寝室に戻ろうと縁側に背を向け、もう1度だけ振り返りました。
 そこには相変わらず、いつもと同じ星空が広がっています。
 儚く、静かに、私の願いを聞き届けたかのように――。






――そして、2人の物語は始まる――














この世に存在する全ての物語を解体すると、その原型は童話や神話にあるそうです。
少年マンガには桃太郎のような話が、少女マンガにはシンデレラのような話が多いようです。
この事を知った時、恋愛CHU!の原型となる童話は何だろうと考え、人魚姫を思い浮かべました。
人魚姫は結局王子様と結ばれず、海の泡となってしまいます。
NANAも人魚姫と同じ運命をたどりますが、決して全てが同じという訳ではありません。
NANAの運命は慎吾君の肩にかかっているのですから。
SUMI様