夢の楽園




それは決して叶うはずのない夢。
その夢が現実になった時、私はすごく嬉しかった。
そしてその夢は、本当なら1ヶ月で終わってしまうはずだった。
私の夢。
それは、大好きなあの人と、ずっと一緒にいられる事。
こんな事を願う私は、ものすごく欲張りなのかもしれない。
でも、願わずにはいられない。
願って、願って、願い続けて。
私は今、ここにいる。






――夢の楽園――







 青い空、流れる雲。
 走る車、歩く人々。
 どれも絵本の世界の物だと思っていた。
 けれどそれは今、現実として私の目の前にある。
 そして――。
「NANA、いい天気だな」
「うん、そうだね! お日様がポカポカして気持ちいいよ」
 今、私の隣に、誰よりも誰よりも大好きな慎吾君がいる。
 夢のような日々が日常となり、それは1ヶ月を過ぎた今も続いていた。
「あ〜あ、せっかくいい天気だってのに、学校に着いたら机に向かってお勉強かぁ。
 NANA、一緒に学校サボらないか? どっか遊びに行こうぜ」
「う〜ん、そういう訳にはいかないよ。学校にはちゃんと行かなきゃ。それに、勉強ってすごく楽しいじゃない!」
「ハァ…仕方ないか。じゃあさ、今日のテストで外出許可取れたら日曜日にデートしようぜ」
「デートっ!? ホ、ホントにっ!?」
「ああ」 
 ボクはあまりに嬉しくて、思わず慎吾君の腕に抱きついちゃった。
「やったぁ! ねえ、絶対だからね!」
「外出許可が取れたら…な」
「絶対に取ってよっ!」
「…頑張ります」
 その後、私は踊り出したいくらい喜びながら、慎吾君と学校へ向かった。
 だってだって、慎吾君とデート出来るんだもん!
 私達付き合ってるのに、デートなんて今まで一度しかした事がないんだもの。
 この前は隣町の水族館へ行ったけれど、今度はどこへ行くんだろう?
 動物園かな?
 それとも遊園地?
 あ、伊集院君が自慢していたディアラバーズかもしれない。
 なんでも恋人達のためのテーマパークっていうくらいだから、きっとものすごく素敵な所なんだと思う。
 けれど慎吾君と一緒だったら、私はどこだっていい。
 商店街でも近所の公園でも、原っぱで寝っ転がるだけでも十分だもの。
 もっとも私は商店街や公園、原っぱにすら行った事はないけれど。






 夢が1つ1つ、現実になっていく。
 絵本の世界へ行って、外の世界を知って、ネットを通じて他人を知って、メールを始めた。
 恋をして、慎吾君と出会った。
 もう、あの狭い世界に戻る事はない。
 私はこれからずっと、ずっと慎吾君と一緒にいられるんだから。
「…何をしているんだ、君は」
「…ベンキョーだよ、文句あるか」
 休み時間、慎吾君は私と一緒にはノートを広げて授業の復習をしていた。
 それを見た伊集院君が、なぜかいぶかしげな表情を浮かべている。
「君が自主的に勉強するとは、何か悪い物でも食べたのか?」
「俺が自主的に勉強したら、そんなにおかしーのかよ?」
「無論だ」
 きっぱりと言い放つ伊集院君を、慎吾君は冷めた目で見つめる。
 私は慎吾君が勉強してても、ちっともおかしいとは思わない。
 それに今回の場合、慎吾君にはちゃんとした理由があって勉強している。
 それは、
「今週の外出許可、絶対に取らなくちゃいけないんだもん。頑張って勉強しないとねっ!」
「外出許可? 以前水族館へ行ったように、また2人でデートでもするのかな?」
「ち、違ーうっ! 週末はだな…その…」
 えっ? 違うの?
 慎吾君は慌てて否定を始め、用事があるとかなんとか伊集院君に説明している。
 どうしてそんな嘘をつくんだろう?
「まあ、ほどほどにしたまえ」
「だから…違うって言ってるだろっ!」
「解ってる解ってる。楽しんでくるんだぞ」
 伊集院君の言葉に、慎吾君はムキになって言い返している。
「せっかくお勉強をがんばっているのに…からかうなんて酷いよ」
 私が呟きに、慎吾君も伊集院君も気まずそうな顔をした。
「す、すまん。からかうつもりはなかったのだが…」
「…からかうつもりで話しかけてきたんだろーが」
 伊集院君は頭を下げて謝ると、すごすごと引き下がっていった。
 そして慎吾君は再びノートに向かい、大きなため息を吐く。
 明日私とデート出来るようにって、慎吾君は一生懸命頑張って勉強していたのに…。

――NANAのためなら、勉強なんて全然辛くなんか――

「え?」
 慎吾君の声が聞こえた気がして振り返ってみたけれど、
慎吾君は私がなぜ振り返ったのか解らないという顔で見つめ返してくる。
「NANA、どうした?」
 おかしいな。確かにさっき、慎吾君の声が聞こえたと思ったんだけど。
「ううん、何でもない。勉強がんばってね」
「ああ…。外出許可のためとはいえ、真面目に勉強すんのは辛いよ」
「慎吾君なら大丈夫だよ、がんばって!」
 日曜日のデートのためにっ!



 


 繰り返される日常。
 何度も何度も喜びを感じ続ける。
 終わらない幸福の連鎖。
 今日もいつもと同じ、けれどとても幸せな1日が終わろうとしている。
「ふ〜、食った食った」
 晩ご飯を終えた慎吾君は、ドサリとベッドに倒れ込む。
 今日はボクも一緒にベッドに転がり込んだ。
 慎吾君の隣に寝転んで、彼にそっとしがみつく。
「NANA、今日は何だか機嫌がいいな」
「そりゃあ、慎吾君が外出許可を取れたんだもの。ボク…すっごく嬉しいっ!」
「NANAが教えてくれたおかげだよ」
 慎吾君はそっと私の頭に手を伸ばし、指先が髪を優しく撫でる。
 それがとても気持ちよくて、私は彼にしがみつく腕に力を込めた。
「デート、楽しみだな」
「うんっ!」
「また待ち合わせしようぜ。この前の公園で、時間は…あまり早いのもタリィし、12時くらいでいいか?」
「うんっ!」
 ふいに、慎吾君がボクのおでこに手を当て、額にかかっていた髪を上に持ち上げる。
 私がきょとんとした顔で彼を見つめようとした矢先、柔らかくてあたたかいものが額に触れる。
 おでこにキスされたんだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
 頬が熱くなるのを感じて、私は思わず顔を伏せる。
 きっと赤くなっていて、見られると恥ずかしいから。
「NANA、日曜が楽しみだな」
「う、うん…その、今度はどこへ連れていってくれるの?」
「秘密だ」
 慎吾君が連れていってくれる場所って、いったいどこなんだろう?
 今朝も思ったけれど、慎吾君と一緒なら…本当にどこだって嬉しいんだから。
 慎吾君、どこにデートへ行くのか…今からものすごく楽しみにしてるからねっ!
 そう思って胸をときめかせていると、ふいに慎吾君が私の頬を撫でた。
「でも、NANAに行きたい所があったら…どこへだって連れていってやるよ」
 甘いささやき。
 優しい微笑。
 煌めく瞳。
 彼の全てが愛おしい。
 胸の奥にじんわりと広がる、あたたかな温もり。
 それは全て、彼が与えてくれたもの。
 そう、彼が与えてくれたものなの。
 喜びも、悲しみも――。






 その白い世界に満たされる匂いは、あまり好きじゃない。
 むしろ、私はその匂いに恐怖を感じていた。
 ツンと鼻腔に香る消毒液の匂い。
 帝慶病院の真っ白な廊下を、私は温子伯母さんと一緒に歩いている。
 今日は土曜日。
 学校がお休みで、私は毎週この病院へ通っている。
 別に私の身体が悪い訳じゃない。
 悪いのは私の双子の弟の、七瀬の身体。
 そして私がこの病院へ来ている理由は、私が七瀬のドナーだから。
「そう。明日慎吾さんとデートなのね?」
「うんっ! 私ね…今からすっごく楽しみなのっ!」
「良かったわね、七海」
 私と温子伯母さんは、雑談を交わしながら七瀬の病室へ向かっていた。
「だからね。私、女の子の服が着たいのだけど…」
「解ったわ。後で用意しておくわね」
「温子伯母さんありがとうっ!」
 嬉しいな。今度はどんなお洋服を着られるんだろう?
 慎吾君が気に入ってくれるといいな。
「ああ…早く明日にならないかなぁっ!」
「1番可愛いお洋服を用意しておくから、楽しみにしていてね」
「慎吾君、可愛いって言ってくれるかなぁ?」
「ええ、きっと言ってもらえるわよ。七海はこんなにも可愛いんですもの」
 慎吾君とのデートを想像するだけで、驚くくらい胸がドキドキする。
 あまりの嬉しさに、視界が真っ白になってしまうほど…きゃっ!
 突然、ボクはお鼻を何かにぶつけてしまう。
「いった〜いっ…」
「七海、大丈夫?」
 ボクはお鼻をさすりながら前を見ると、そこにあったのは真っ白な壁。
 いつのまにか廊下は曲がり角に差し掛かっていた。
「あ、あはは。デートの事考えてたら、壁に気づかなかったみたい」
「本当に…慎吾さんとのデートが楽しみなのね」
「えへへ…」
 ボクは照れ笑いを浮かべ、角を曲がって歩き出す。
 それからしばらくして、目的の病室にたどりつく。
 ドアの横のプレートに書かれている名前は、神崎七瀬。
 私は病室の前で立ち止まり、温子伯母さんは中へ入っていく。
 ちょっとだけドアを開いたまま。
 その後すぐ、温子伯母さんと七瀬がお話が聞こえてきた。
 私はそっとドアに寄り添い、病室を覗く。
 そこには私にそっくりの顔をした男の子が、ベッドから身を起こして楽しそうに笑っていた。
 私はただ、眺めるだけ。
 話しかける事すら出来ないけれど、私はこの時間がとても愛おしい。
 双子の弟を、七瀬を見つめていられる…この時間が。
 でもそんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、温子伯母さんが病室から出てくる。
 そして一緒に、私が寝泊まりするための病室へ向かう。
「七瀬…すごく元気そうだったね」
 私の病室にたどりつき、ベッドの上に腰を下ろしながら笑顔で言った。
「そうね。七海が…七瀬に肺を分けてくれたおかげよ。おかげとても健康な身体を取り戻せたのよ」
「よかった…これでもう、七瀬が病気で苦しい思いをしなくてすむのね」
「ええ、そうね…でも七海、あなたが…」
 温子伯母さんがあまりに悲しそうな顔をするものだから、私は胸の奥に痛みを感じた。
「私の身体なら大丈夫。ホラ、こんなに元気なんだよっ?」
「…そうね。七海はとても元気だもの…心配ないわよね」
「うんっ! 元気がありあまっちゃって大変なんだからっ!」
 私の言葉に納得したのか、温子伯母さんは安堵したかのように微笑んだ。
「それじゃあ、私はもう少し用事があるから…七海はこの部屋でおとなしくしていてちょうだいね」
「はーいっ」
 私は元気よく返事をして、温子伯母さんを見送る。
 ふいに私の背後でガサガサと音がしたので慌てて振り返ると、窓の外の木が風で揺れていただけだった。
 ホッと息を吐いた瞬間。

――七海…本当にごめんなさい――

 悲痛な呟きが、私の耳に届いた。
 聞き間違えるはずがない、子供の頃からずっと聞き続けてきた声。
「あ、温子伯母さん。だから別に、私は――」
 振り返ると、そこにはもう温子伯母さんの姿はなかった。病室のドアも堅く閉ざされている。
 声は、ドアの向こうから聞こえたにしてはハッキリとしていた。
 声がしてから振り返るのに、1秒とかからなかったのに…。
 私は首をかしげながら、ベッドにゴロリと横になった。
 最近の私は、どこか変かもしれない。
 今日はゆっくり休んで、明日のデートに備えなくっちゃ。
 私はゆっくりと瞳を閉じ、夢の世界へと落ちていった。






 そこは暗い場所。
 何も聞こえない、何も感じられない虚無の世界。
 瞳を開く。
 けれど何も見えない。
 だからまた、瞼を下ろす。
 誰かが泣いた気がした。






 最近恐い夢を見る。
 昨日見た夢も、私の心に不安という影を落とした。
 だから私は、眠ってしまうのが恐い。
 それに夢の世界には、慎吾君がいないから。
 例え慎吾君の夢を見ていたとしても、それは夢でしかないのだから。
「さあ七海、お洋服の準備が出来たわよ」
 私の寝泊まりしている病室に入ってきた温子伯母さんは、とても嬉しそうに笑いながら一着の服を差し出した。
「アハッ。温子伯母さん、とっても嬉しそうだねっ!」
「だって、七海が女の子の服を着た姿を見るなんて久し振りですもの。
 それに今日は慎吾さんとデートなんでしょう? あなたが幸せだと、私もすごく幸せな気持ちになれるの」
 私と温子伯母さんをこんなに幸せな気持ちにしてしまうなんて、やっぱり慎吾君はすごいや。
「よーし、さっそく着替えて待ち合わせ場所に行かなきゃ」
「七海…約束の時間は12時でしょう? まだ早いんじゃないかしら」
「いーの。待ってる時間だって楽しいし、それに、慎吾君を待たせたくないんだものっ!」
 私は温子伯母さんが持っていたお洋服を受け取って、目の前で広げてみる。
 それは可愛い緑色をした、フリフリのワンピースだった。
「どう? 気に入ってもらえたかしら…」
「あ、うん。とってもステキなお洋服だね。でも、これって…」
 以前、慎吾君とのデートの時…温子伯母さんが用意してくれた服だよね?
「…どうしたの? もしかして、気に入らなかったかしら?」
「そ、そんな事ないよっ! とっても可愛いよ、慎吾君も喜んでくれると思う」
「そう、よかった」
 温子伯母さんの笑顔を見ていると、私は疑問を口に出せなくなってしまった。
 温子伯母さん…私がこの前この服を着てデートに行った事、忘れちゃったのかな?
 それともこの服が私に似合うと思って、前と同じ服だって知ってて用意してくれたのかな?
 奇妙な違和感を感じる。
 その違和感の正体を、私は知っている気がする。
 でもそれを認識するのが恐い。
 胸の奥で不安と恐怖が渦巻く。
 私、いったいどうしちゃったんだろう?
「……み。……七海」
 自分の名を呼ばれている事に気づき、私は温子伯母さんの顔を見上げた。
 とても心配そうな表情で、瞳には不安の色が浮かんでいる。
「どうしたの七海? 顔色がよくないわ…気分でも悪いの?」
「あ、だ、大丈夫…心配しないで…」
「でも…」
「大丈夫。本当に何でもないから…私は大丈夫だから…」
 身体が重い。けれどなぜか、胸だけは軽く感じる。
 まるで胸の中がカラッポになってしまったかのように…。
「さ、早くお着替えしないと…慎吾君、気に入ってくれるかな?」
「七海。今日はここでお休みした方がいいんじゃないかしら…? 慎吾さんには私が事情を説明するから…」
「だ、大丈夫よ。ホント、大丈夫だから」
 私は無理に笑顔を作って、元気な振りをする。
 温子伯母さんはやっぱり心配そうな顔をしていたけれど、一応私の着替えを手伝ってくれた。
「どう? 似合うかな?」
 私はクルリと回って、ワンピースを着た姿を温子伯母さんに見せる。
「とてもよく似合ってるわよ」
 と元気のない声で、温子伯母さんは言った。
「七海は…本当に色んなお洋服が似合うわね。やっぱり元が可愛いから、何を着ても似合うんじゃないかしら?」
「そんな、可愛いだなんて…」
 私はその言葉が嬉しくて、何だか少し身体が楽になった気がした。
「七海には、色々なお洋服を着せて上げたいわ。まだまだあなたに似合う服がたくさんあるんですもの」
「そ、そうかな? エヘヘ、私も可愛い服をたくさん着てみたいな。そうしたら、慎吾君も喜んでくれるかな?」
「ええ、きっと…きっと喜んでくれるわ。だから私、あなたのために色々お洋服を用意しているのよ」
 そうなんだ。でも、だったらどうしてこの服を持ってきたんだろう?
「七海…私、あなたが色んな服を着て、嬉しそうにはしゃぐ姿がまた見たいわ。
 だって慎吾さんに見せて、褒めてもらえるんじゃないかと思っているあなたは、本当に幸せそうなんですもの」
「えへへ…だって、幸せなんだもん」
 恐い夢を見る。 
 とても不安な気持ちになる。
 違和感を感じる。
 けれど、そんな暗い想いや感情も、この幸せの前では全てかすれてしまう。
 こうして幸せを感じるたび、私は慎吾君にすごく感謝している。






 私が望んでいたもの。
 それは日常の繰り返し。
 彼と一緒の日々を送り続ける事。
 幸せだった時間の中で、私は最愛のあの人を待っている。
「待った?」
「ううん、今来たところよ」
 約束した公園のベンチに座りながら、私は隣のベンチで待ち合わせをしていたカップルの様子を見ていた。
 ホントは30分くらい前から女の人は待っていたのだけれど、彼女はちっともそんな気配を彼に見せようともしない。
 そして2人は寄り添いながら、公園の外へ歩いていった。
 きっと、あの人達もデートなんだろうな。
 羨ましいなぁ…私も、早く慎吾君とデートしたいな。
 公園の時計台を見ると、時刻は1時半近くになっていた。
 …待ち合わせの時間、12時だよね?
 遅いなぁ、いつまで待ってればいいんだろう。
 でもお日様がポカポカして、風がそよそよと頬を撫でて気持ちいいから、こうして待ってるのも悪くないかな。
 私は瞳を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
 爽やかな空気が肺を満たし、スッと身体が軽くなる。
 風に揺れ、カサカサと木の葉が擦れ合う音が遠くで聞こえる。
 自然を身体で感じて、目を閉じているのに世界が明るく見えてしまう。
 あの離れでは決して感じる事のなかったもの。
 私は今、外の世界にいるんだと実感する。
 しばらくして私が目を開くと、そこには大好きなあの人の姿があった。
 キョロキョロと公園内を見回しているけれど、私を捜してくれているのかな?
 私はそっと彼の背後に忍び寄る、慎吾君は気づかない。
「NANAの奴…どこだ? ったく、何で今日に限って寝坊なんかしちま」
「しーんーごー君っ!」
「わわっ!?」
 私は彼の背中に、思いっきり飛び込む。
 慎吾君は身体のバランスを崩し、前のめりに倒れそうになったけど何とか持ちこたえた。
「な、NANAか? いきなり飛びつくなよ…」
 慎吾君は眉根を寄せて振り返り、私の服装を見て頬を赤く染めた。
 私は黙って彼の顔を見つめていたけれど、ある言葉を言ってもらいたくて口を開く。
「ねえ…待った? は?」
「…へ?」
「だから…待った? って訊かないの? 前の時はそう訊いてくれたじゃない」
「あ、ああ…えと、待った?」
「ううん、今来たところよっ!」
「今来たところ…って、NANA何時から待ってたんだよ?」
「11時から」
「…って、2時間半も待たせちまってるじゃないかぁっ!!」
「アハッ、この前デートした時と同じだね」
「NANA、本当にゴメン」
「そんな、気にしなくてもいいよぉ。待ってる時間だって楽しいんだもんっ!」
「けど、1度ならず2度までも…」
「もう。そんな事いつまでも気にせず、早くデートしようよっ!」
「あ、ああ。それじゃ…行こうか」
「うんっ!」
 私は彼と手をつないで、一緒に歩き出した。
 駅に行って電車に乗って、慎吾君は私を目的の場所へと連れていく。
「楽しみだなぁ。いったいどこでデートするんだろう?」
 もう、一昨日から何度も何度も考えていた事。その答えがもうすぐ解るんだと思うと、胸がドキドキする。
 そして、私が慎吾君に連れてこられた場所は…隣町の水族館だった。






 これは私が望んだ事。
 だから私はとても幸せ。
 だってそうでしょ? 私は慎吾君と一緒にいられるのだから。
 慎吾君とデートをしているのだから。
 そう。慎吾君と、水族館へ来ているのだから。
「…NANA、どうした?」
「え?」
「何か…元気ないぞ。調子でも悪いのか?」
「そ…そんな事ないよっ! あ、慎吾君見て見て。あのお魚さんキレイっ!」
「ん…ああ、キレイだな」
 自分の気持ちをごまかすために、私は咄嗟に話をそらす。
 今はデートを楽しもう。
 正体も解らない些末な不安で、せっかくの慎吾君とのデートを台無しにしたくない。
 せっかく慎吾君が楽しい思いをしているというのに。
 せっかく私が望んだ幸福な時間が訪れたというのに。
 そうだ。こんな事はとても些細な問題にすぎない。
 私は彼と一緒なら、例えデートの行き先がどこだろうとかまわないのだから。
 そう。それが例え、初めてのデートで来た水族館だったとしても。
 私は不安を忘れようと、色鮮やかなお魚さん達の後を追う。
 とてもキレイなお魚さん達、例えそれらを見るのが2度目なのだとしても、その美しさが損なわれる事はない。
 そうして私は、初めて水族館に来た時と同じようにはしゃいで回った。
「NAーNA。楽しいのは解るけどさ、そんなにはしゃぎ回るなよ。すぐ疲れちまうぞ」
「だって、すっごく楽しいんだもんっ! はしゃぐなって方が無理だよっ!」
 最初は不安を忘れるために、無理に楽しそうな振りをしていたけれど…。
 でもそれはすぐ、演技じゃなくなってしまった。
 彼と一緒にお魚さん達を見て回る事が、本当に楽しくて楽しくてしょうがないから。
「ねえ慎吾君、あのお魚さんすっごく変な顔してるっ!」 
「ねえ慎吾君、このお魚さんの名前面白いねっ!」
「ねえ慎吾君、すっごく小さなお魚さんがいっぱいいるよっ!」
「ねえ慎吾君、お魚さんのウロコがきらきら輝いてすごくキレイだねっ!」






「ふ〜、疲れたぁ〜」
 私は椅子に座ったまま、背を伸ばした。
 そんな私を見て、慎吾君の頬がゆるむ。
「でも、楽しかったよな」
「うんっ!」
 慎吾君はアイスコーヒーをストローでかき混ぜ、紙コップの中で氷がカランと音を立てる。
 そして一口だけ飲んで、小さく息を吐いた。
 私達は水族館の中にある休憩所で、自動販売機のジュースを買って休憩している。
 もちろん、休憩が終わったらまた水族館の中を歩き回るんだけどね。
「NANAがすっげー楽しそうにしてるから、俺も連れてきた甲斐があったよ」
「慎吾君…本当にありがとう。私、とっても幸せだよ」
「ハハッ、NANAは感激屋だなぁ」
 私は彼の笑顔に、つい見とれてしまった。
 美しいお魚さん達より、彼はとっても魅力的だと思う。
「なあ、NANA…」
「なぁに?」
 何気なく返事をすると、慎吾君はなぜか顔を伏せていた。
「…慎吾君?」
「俺さ…NANAに会えて、本当に良かった」
 …え?
「デートだって、すごく楽しくて…NANAがこんなにも幸せそうに笑ってくれて…」
 ヤだ、慎吾君ったら。突然何を言い出すんだろう。
 でも…えへへ、照れちゃうなぁ。
「だから」
 慎吾君は顔を上げて、私の目を見つめてきた。
 その瞳は、ほんの少しだけうるんでいた。
「また…NANAとデートとかしたいと思ってる。NANAの望む所へ連れてってやるから。だから…。

――NANAの笑顔を、また見せてくれよ――

 だから…またデートしような」 
 一瞬、慎吾君の声に何かが重なった気がした。
 よく解らない、奇妙な感覚…。
 胸の中で何かが渦巻いてる、瞳の奥がチリチリと熱い。
 何かが込み上げてくる。
「し、慎吾君…どうしたの? そんな…そんな悲しそうな顔しないでよ」
「ゴメンな…NANA」
「どうして謝るの? ねえ…慎吾君」
「…………」
 彼は口を閉ざしたまま、私から顔を背けた。
 そしてふいに彼の表情が緩む。
「さ、休憩はこれくらいにして…そろそろ行こうか」
「…え? あの、さっきの」
「NANA、何ぐずぐずしてんだよ。置いてくぞ」
 慎吾君は空になった紙コップをクズかごに投げ込んで、スタスタと歩き出した。
「あ、待ってよぉっ!」
 私も慌てて彼の後を追って、休憩所を出る。
「そろそろNANAが楽しみにしていたイルカショーの時間だからな、遅れないよう急ごうぜ」
 慎吾君はさっきまでの悲しそうな表情が嘘のように、いつもどおりの優しい笑顔を浮かべていた。






 彼の声が聴きたい。
 彼の体温を感じていたい。
 彼の側にいたい。
 彼のいるこの世界で、ずっと一緒に…。
「今日はお楽しみだったようだな」
 晩ご飯の乗ったトレイを持っていつもの席に行くと、そこで伊集院君と太陽君が待っていた。
「お楽しみ…って、何だよ?」
 慎吾君はガシャリと乱暴にトレイを置いて、伊集院君を睨み付ける。
「おや? 今日は2人でデートをしてきたものだと思っていたが…違ったかな?」
「なっ…んな訳ねーだろっ!」
 心ときめくデートが終わり、また穏やかな日常が戻ってきた。
 今日も4人一緒に晩ご飯を食べる。
 今日も4人で楽しく雑談をする。
「それで、今日はどこに行ってきたんだい?」
「隣町の水族館だよ」
「そうか、神崎君はよっぽど水族館が好きなんだな」
「うんっ! それに、慎吾君と一緒ならどこだって楽しいよっ!」
「な、NANA…」
 慎吾君は少しだけ頬を赤く染めて、苦笑いを浮かべる。
「ハハッ、お前等ってホント仲良いよなー」
「まったくだ。まあこの学園が禁止しているのは男女交際なのだから、何ら問題はないな」
「…な、何言ってんだよっ! お、俺達はだな…その…」
 太陽君と伊集院がおかしそうに笑い、私もつられて笑い出す。
 慎吾君は仏頂面をしていたけれど。
 今日は本当に幸せな日。
 大好きな慎吾君とデートをして、大切なお友達の太陽君と伊集院君と一緒にお喋りをして。
 それに、ご飯も美味しいし。
 いっぱい遊んでお腹ペコペコだったから、お話をしながらでも自然と箸が進む。
 空になったお皿を返すため、トレイを持って立ち上がった瞬間の事だった。
 突然目の前が真っ白になり、私は身体のバランスを失う。
「NANAっ!?」
 慎吾君の呼ぶ声が聞こえる。
 頭を横に振って、重い瞼を賢明に開く。
 けれど瞳には何も映らない。
「NANAっ!」
 慎吾君の呼びかけで、霧が晴れるように私の頭はハッキリとしてくる。
 まばたきをすると、心配そうに私を覗き込む慎吾君の顔があった。
「NANA…大丈夫か?」
「…うん、ちょっと目眩がしただけ」
 気が付くと、私は慎吾君に抱きかかえられていた。
 私と慎吾君の食器は床に散らばっている。
「貧血か? 神崎君、今日はもう部屋で休みたまえ」
「そうそう、無理はよくないぜ」
 太陽君達も気遣ってくれている。
「うん…そうだね、部屋に戻るよ」
 私は慎吾君から身体を離し、しっかりと床を踏みしめ立ち上がる。
 そして食器を拾おうと思った矢先、慎吾君が私の前に背中を向けてうずくまった。
「ホラ、NANA」
「え? あの」
「おぶってってやるよ」
「でも、食器が…」
「それはボクと太陽が片づけておくよ」
 私は伊集院君の言葉に素直に従い、慎吾君の背中に身を任せる。
 広くてあたたかい彼の背中。
 私は不謹慎にも、とても幸せな気持ちになってしまった。
 ゆっくりと瞼を下ろし、ゆっくりと深呼吸をする。
 身体が重い…疲れてるのかな?
 彼のぬくもりを感じながら、私は部屋へと連れ戻された。
 慎吾君は私をベッドの上に降ろして、心配そうな口調で言う。
「NANA、気分はどうだ?」
「うん、だいぶ楽になったよ」
 そう答えたのは彼を安心させたかったからだけど、実際倒れた時に比べ気分はよくなっていた。
「アハハ、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな。ちょっと疲れただけだから、心配しないで」
 慎吾君は私はその隣にそっと腰掛け、安堵の笑みを浮かべた。
「でもさ、今日はすっごく楽しかったよねっ!」
「ああ、そうだな。こんなに楽しかったのは久し振りだよ…」
 慎吾君の声には力が無い、やっぱりまだ私の事を心配しているみたい。
「ゴメンね、私がはしゃぎすぎちゃったから…」
「気にするなよ。それに、俺としてはNANAが楽しんでくれればそれでよかった訳だし」
「慎吾君…」
 私は彼の気持ちが嬉しくて、頬を赤く染め、彼の手に自分の手のひらを重ねた。
「…ありがとう。私…すごく幸せだよ」
「俺もだよ、NANA。俺も…NANAがいてくれてすごく幸せだった」
 ドクンと胸の鼓動が高鳴る。
 慎吾君がこんな事を口にするなんて滅多にないから。
 彼は私の手をもう片方の手で覆い、優しく握りしめる。
「NANAとメールをしていた時も、NANAと過ごした一ヶ月も…俺にとって、かけがえのない時間だった」
 ふと、彼の言葉に違和感を感じた。
「俺は今まで、何の変哲もない…普通の人生を送ってきた」
「慎吾君、何を言って…」
「でも、NANAと出会ってからガラリと変わっちまった。
 色々大変な事があったけど、俺が今まで生きてきた中で…1番幸せな日々だった」
 違和感が胸の中を駆けめぐる。
 軽い目眩が再び襲ってきて、一瞬彼の姿がかすんだ。
「ねえ…慎吾君、どうしてそんな…昔の事みたいな言い方をするの? 今は? 今は幸せじゃないの?」
「NANAは…あきらめなかったんだよな。手術室から生きて帰ってくるって、温子さんと約束したんだよな」
「ど、どうしてそれを…」
「NANAは約束を守ってくれた」
 重ねられた手の甲に、涙がポツリとこぼれ落ちる。
「俺もあきらめなかったよ。だから今、俺はここにいるんだ」
「ね、ねえ…慎吾君。さっきから…何か変だよ?」
 震える唇から、絞り出すように言葉をつむぐ。
「…どうして、泣いているの?」
 彼の手が震える。瞳いっぱいに涙を浮かべ、私を見つめている。
「NANA…俺、絶対にあきらめないからな…」
 そう言って、慎吾君は指先で私の目元を拭った。
 その指先は濡れている。
 ハッと自分の頬を撫でると、涙で濡れていた。
 私、どうして泣いているんだろう?
「NANA…」
 慎吾君は悲しみに暮れた表情で、私の唇に自身の唇を近づけきた。
 ――キスされる。
 頭はまだ混乱していたけれど、私は咄嗟に瞳を閉じる。
 この不安な気持ちを忘れてしまいたい。
 少しでも慎吾君の悲しみを癒して上げたい。
 唇に、柔らかくてあたたかいものがそっと触れる。
 その瞬間、身体中の力が抜けて、何かが身体の奥から込み上げてきた。
 私の中で、何かが目覚めた。






 唇から彼のぬくもりが離れ、私はそっと目を開いた。
 そこは闇に包まれた世界。
 身体に力を入れようとしたけれど、何故か指一本動かせない。
 視線だけ横に向けると、薄明かりの中、窓の前に誰かが立っていた。
 見覚えのない、大人の男の人。
 ふと、彼の頬がキラリと光る。
 それは涙だった。
「…どうして、泣いているの?」
 私が声をかけると、彼は振り向き、私に駆け寄った。
 私の苦手な消毒液の匂いを身にまとう男の人。
 彼が私の顔を覗き込んできたけれど、暗くて彼の顔がよく見えない。
 彼の口元がかすかに動いた。
「な…NANA…」
「NANA? どうして…私のその名前…」
 NANA。その名前を知るのは慎吾君と温子伯母さん、それに鷹宰学園の生徒だけのはずなのに。
 どうしてこの人はNANAを知っているんだろう?
 ふいに身体を激しい疲労が襲い、私は再び瞼を下ろす。
 帰らなくちゃ。
 ここがどこなのかは解らないけど、鷹宰学園の男子寮へ帰らなくちゃ。
 だって、あそこに慎吾君がいるのだから。
 慎吾君が泣いているから。
 だから、帰らなくちゃ。












 しだいに意識がまどろみ、私は元いた場所へと帰っていく。
愛する彼とずっと一緒にいられる、幸せに満ちあふれた世界へ。
けれど。
消毒液の匂いを身にまとう、見覚えのないあの人の声が耳から離れない。
どこかで聞いた声。とても懐かしい声のはずなのに、誰の声なのか思い出せない。
私はあの人に奇妙な懐かしさを感じながら、また彼に会ってみるのも悪くないかもしれないと思った。





――終わり――






タイトルの『夢の楽園』とは、NANAの見ていた夢の事ではありません。
NANAにとっての『夢の楽園』とはいったいどこなのか?
NANAにとっての『夢』とはいったい何なのか?
NANAの『夢』は、NANAの『夢』の中には存在しません。
このSSのNANAが『夢の楽園』へ帰る日まで、あとちょっと。
SUMI様