「碧眼鎖〜君の名は〜」


これは、NANAたちが生まれる以前の物語。
NANAたちの父親の、語られざる物語。
もしかしたら、NANAの身に降りかかっていたかもしれない物語。
それはそう、緑色の瞳に宿る、とても切なく、哀しい物語──



          「碧眼鎖〜君の名は〜」



「じゃあ凌(りょう)、後はお願いね。」
「2、3週間で帰ってくるつもりだが…本当に大丈夫か?」
「うん。ボクももう子供じゃないんだから、まかせといてよ。」
両親に向かい、凌と呼ばれた少年は、笑顔を見せる。
自分では子供ではないと言っても、まだまだ14の幼さの残る少年だ。
両親が不安にならないほうがおかしい。
それに、凌は体つきも華奢で、性格もまだまだ世間の厳しさや汚さを知らない、無垢なものなのだ。
学校や世間では、その女のコのような顔つきや線の細い体、高い声のせいで、
紅顔の美少年と呼ばれているくらいだ。
「そう…じゃあ、行ってきます。何かあったら、お手伝いさんに言ってね。」
「うん、父さんも母さんも、気をつけてね。お仕事がんばって。」
凌は、その緑色に輝く大きな瞳で両親を玄関先から見送った。
中部地方の一部の地域とはいえ、凌の『神崎家』は大きな力を持っていて、
そのために両親は多忙な日々を送っていた。
今回もまた、そのために2、3週間ほど家をあけることになったのだ。
凌の『碧眼』も神崎家に代々伝わるもので、なぜか神崎家の長男、あるいは
後継者にのみ受け継がれてきたものだ。
もちろん、凌の父親もまたその碧眼を受け継ぎ、それと同時に大きな力も受け継ぎ、
そしてその大きな力はいずれ凌のものとなるように宿命付けられている。
そのため、凌は今から後継者となるべく、勉学に勤しむ毎日を送っているのだ。
「さて、今からどうしようかな…晩御飯まではまだ時間があるし。
お父さんたちがいないことだし、たまには勉強をさぼってのんびりしようかな〜。」
凌は、縁側を歩きながら、ふと目線をとある一点に止めた。
それは普段、危ないから近づいてはいけないと
両親、特に祖父に厳重に注意されていた蔵だった。
今、丁度両親は外出しているし、祖父もまた老人会の人たちと温泉旅行に出かけていて
帰ってくるのは両親と同じくらいになるはず。
そう思うと、まだまだ幼い凌は好奇心を抑えきれず、
一歩、また一歩と蔵へと歩み寄って行ってしまった。





「どこから見ても、普通の蔵だよね…どこが危ないんだろう?」
凌は蔵の周りをグルグルと見渡す。
が、これといって不審な点も見あたらず、
ただボロボロに朽ちている、普通の蔵でしかない。
「誰も見ていないよね…?」
お手伝いさんが見ていないことを確認し、ソッと蔵の扉へと手をかける。
が、そこには大きな南京錠と、鎖が何重にも巻かれていた。
まるで、外に出してはならない何者かを閉じ込めているかのようだ。
「ど、どうしよう…あ!」
ふと、凌はこの蔵のことを思い出した。
数年ほど前、両親がこの中から出てきたところを目撃したことがあり、
そのとき、父親がこの蔵の鍵を近くの大木の根元に埋めていたのをこっそり見ていたのだ。
当時は掘り返すことなど考えもせず、
ただただここは危険な場所なんだとしか思っていなかったため、
今の今まですっかり忘れていたのだ。
「よし、掘ってみよう。もしかしたらまだ、埋まってるかも。」
凌は、まるで、宝島でも探し当てたかのような笑顔でスコップをとりに戻った。
そこには、自分にとって『いいもの』があると信じて疑っていないのだろう。





「確か、この辺に埋めていたような…。」
何本かある木のうち、一番それらしきものの根元を、スコップで掘り始めた。
しかし、掘れども掘れども一向に鍵らしきものは姿を現さない。
いくらなんでも、そんな深くには埋めていないはずなのだが。
それとも、掘る場所が悪いのだろうか?
「おかしいなぁ…確かにこの木のはずなんだけど。勘違いかなぁ?」
凌は、形のいい眉をひそめ、小首を傾げる。
記憶力には結構自信があったのだが、ここにきて少し自信喪失しかけたらしく、
あたりを見渡して今掘っているところがあっているか再確認を始めた。
「う〜ん、あってるはずなんだけど…もう少し掘ってみようかな。」
やはり少し自信をなくしたのか、掘るスピードがさっきまでよりは少し遅くなってしまった。
そして掘り続けること約10分。
「あっ!」
なにやら硬いものにあたったのか、軽い金属音が響いた。
その音が鍵か、あるいは鍵をしまった箱なのだと察した凌は、嬉々として掘り続ける。
すると、その穴から小さな金属製の箱が姿を現した。
その箱はすでに錆だらけで、塗装もはげているため、
すでに元が何色なのかさえ判断できない有様だ。
しかし宝箱を見つけたかのように嬉しそうな笑みを浮かべる凌にとって
そんなことは些細なことらしく、ボロボロになった箱をその小さな手でこじ開けようとしている。
「むむぅ〜…なかなか開かないなぁ…あっ、開いた!」
長い間土の中で眠っていた宝箱が、ついにその中に眠る宝物を外に出す瞬間が訪れたのだ。





「この鍵が…あの蔵を開ける鍵なんだ。」
中から出てきた鍵を手に取り、蔵の前に立つ凌。
その小さな肩を喜びのあまり震わせながら、鍵穴に鍵を差し込んでいき、
奥まで入ったところをソッと回す。
すると、カチッと小さな音ともにあっけなく南京錠が外れてしまった。
「あ、アレ…開いちゃった?」
錠、鍵両方とも錆びついていたため、なかなか開かないであろうと思っていたのだが、
思いのほかすんなりと開いたことに、凌は少し不満のため息を吐き出す。
なかなか開かないところを強引にあけるという小説やら漫画でありがちな展開に、
多少なりとも期待を持っていたのだろう。
やはり、大きな家の跡取りと言えどもそのあたりは普通の子供らしい。
「はぁ…面白くないなぁ。
でも、中にはきっと思いもしない何かがあるかも。
なんたって、お父さんやお母さん、お祖父ちゃんまでもが
入っちゃダメだって言うくらいなんだから、
それはもう想像もつかないようなものがあるんだよね。」
入り口では期待が外れたが、中に入ればきっと何か素晴らしい発見があるに違いないと
気を取り直して、蔵の中に入っていく。
気分はすっかりトレジャーハンター気取りだ。





「うわぁ、真っ暗だ。」
重い音とともに扉が開き、暗闇が支配する世界が顔を覗かせる。
その暗闇の世界に、外の光が差し込み、うっすらとだが凌にその姿を見せ始めた。
あちこち外壁がはがれかけていた外観とは裏腹に、
まるで頻繁に誰かが掃除でもしているかのように中は綺麗にされている。
とても、長い間使われていない建物とは思えない。
鍵が数年前に封印され、本来ならば誰も入ることができないにもかかわらずだ。
いくつも並んでいる棚の中には古い文献や高価そうな骨董品がところ狭しと置かれており、
中には小さな子供用のおもちゃらしきものも、ほんの少しだが見受けられる。
コマ、メンコ、縄跳び、ビー玉…どれも、古くてボロボロになっている。
それらが珍しいのか、凌は棚を眺めながら、ゆっくりとだが歩を進めていく。
「すごい古そうなものばっかりだけど、ほこりをかぶってないや。」
使われていないはずなのになぜほこりをかぶっていないのか。
外観はボロボロなのに、建物の中はなぜ綺麗にされているのか。
そんなことを考えながら子供用のおもちゃにソッと手を触れる。
と、そのとき、パッと蛍光灯の明かりが灯り、
凌の正面から小さな人影が姿を現す。
「誰か…いるの?」
その声に、凌はゴクリと息を呑んだ。





「え…あれ?ぼ、ボク?」
小さな人影。
それは、凌によく似た少年だった。
まるで鏡でも見ているのではないかというほどに、凌にそっくりだ。
自分がもう一人いるのだと勘違いするのも無理はない。
ただひとつ違うところといえば、その瞳の色。
凌の綺麗な緑色の瞳に対し、その少年の瞳の色は、
その髪の色と同じ、やや茶色がかったものだった。
「キミ、誰?」
「えっと…ボクは、この家の──この蔵の持ち主の家の子供、
神崎 凌って言うんだけど。キミは一体…?」
凌がそう自己紹介すると、その少年はフッと軽く笑みを浮かべる。
「僕?僕は…『もう一人のキミ』ってとこかな?」
「もう一人の…ボク?ま、まさかドッペルゲンガー!?」
「あはは、キミ、面白いね。
安心して、そんなのじゃないからさ。
…まぁ、『本来なら存在していないもの』と言う点では同じかな?」
少年は楽しそうに笑いながらゆっくりと凌に近づいていく。
そんな少年を見て、凌も自分から近づいていく。
不思議と、相手に対しての抵抗感や、
正体がわからないという不安感というものがまったく感じられず、
まるで生まれたときから相手のことを知り尽くしている、といった感じだ。
「ねぇ、凌。もうすぐ夏休みだよね?」
「え?うん。確か今日は7月3日だったから…後2週間とちょっと、かな?」
「ふ〜ん、後2週間以上あったか。
…だったらさ、明日からでもちょくちょく遊びにきなよ。
ここには古いものが沢山あるから、きっと楽しいよ。」
「え、でも──」
「特に夏休みになったら、一日中だっていられるだろ?
一緒に遊ぼうよ。」
そう言って少年はニッコリと微笑みかける。
凌に似ているだけあって、とても優しく、可愛らしい笑顔だ。
だが、凌にはその少年の笑顔がどこか悲しいものに見えてしょうがなかった。





凌は少年の言うとおり、次の日から毎日のように蔵の中へと遊びにいった。
なぜ蔵の中にいるのか、
少年の本当の名前はどんな名前なのか。
そして『もう一人のキミ』とはどういう意味なのか。
何度聞いても一向に答えてもらえないが、
それでも凌は少年に興味を惹かれていた。
いや、答えてもらえないからこそ、余計に興味を惹かれたのかもしれない。
もしかしたら、本当に『もう一人のボク』なのかもしれない、なんて思いながら、
凌はその少年と楽しい時間を過ごしていた。
初めのうちは古い文献やら骨董品を漁り、
日が経つにつれ、かくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり。
最近では、棚に置いてあったメンコやビー玉、コマなどを使って遊び、
二人はすでに十年来の親友のようになっていた。
たとえ相手の名前がわからなくとも、
正体がはっきりせずとも、凌にとって少年は大切な存在となっていたのだ。
「遊びに来たよ〜、出ておいでよ。」
あれからおよそ3週間後の7月29日。
昼食後、凌はいつもどおり、蔵を訪れいていた。
しかし、今日はいつもとどこかが違っていた。
いつもなら、蔵の中に入るなり、少年が自分のところへと飛んできたのに、
今日はそれがなかったのだ。
もしかして体調が悪いのかな?
それとも、昼寝でもしているのかな?
『存在してはならないもの』と言っていたけど、
本当に『そういった存在』だから、
出てこれるときと出てこれないときでもあるんだろうか?
心配をしながらも、凌は蔵の奥へと入っていく。






「凌!」
大柄な男性の背中越しに、少年がこちらを見て大声を張り上げる。
凌は、その男性の背中に見覚えがあった。
それは、いまだに神崎家の中で大きな力を持っている、祖父であった。
ただ、力を持っているとはいえやはり老体、
かなり足腰が弱ってきているらしく、
手には金属で作られた杖を持っていて、
それがなければ満足に歩くこともままならないのだが。
そんな祖父が、少年の声に、凌の方へと顔を向ける。
「凌!!なぜこの蔵に入った!?絶対に入ってはならんと何度も注意してあったはずだろう!」
「えっ…それは、その…。」
祖父の厳しい声に、凌は思わず後ずさりしてしまう。
長身の祖父は、小柄な凌を上から見下ろす格好になっていて、
それが、凌にさらにプレッシャーを与えてしまっているらしく、
凌は何も口に出せなくなってしまった。
「帰ってきてみたら蔵の鍵が開いていたから、もしやとは思ったが。
まさか開けただけでなく、入って『これ』と接触してしまっていたとはな…。」
あごで少年を指し、『これ』と呼ぶ祖父を、
凌はただ呆然と見ることしかできなかった。
どうして、人を『これ』などと呼ぶことができるのだろう。
それより、おじいさんはどうしてこの少年のことを知っているのだろう。
話の内容がまださっぱりだけど、
恐らく少年はおじいさんの手によって閉じ込められていたんじゃないか。
そんな考えが凌の頭の中をグルグルと巡る。
「凌よ、もう二度とここには近づくな。
『これ』と接触することは許さん、いいな?」
「えっ…。」
二度と近づくなという言葉に、凌は我に返る。
せっかく出会えた親友なのに二度と会えなくなるなんて。
いくら何でも、そんなのひどすぎるじゃないか。
何か反論しようと試みるが、圧倒的な威圧感に、凌は動くことすらできずにいる。
そんな凌を見ていることがつらくなったのか、少年が口を動かし始めた。
「大丈夫だよ凌、会えなくなっても、僕たちはつながっているんだから。」
「うるさい、しゃべるな!!貴様は自分がどういった存在か知っているだろう!!」
「え、どういう存在かって…どういうこと?」
「ふん、なるほどな。
お前、両親から何も聞かされておらんようだな…。」
凌は、ゴクリと固唾を呑む。
それとほぼ同時に、少年は哀しそうな表情のまま俯いてしまった。
自分の一番知られたくないことを、
一番知られたくない人に知られてしまうことを恐れているかのように。






「いいか凌、『これ』はお前の片割れ──お前の双子の弟なのだよ。
そう、神崎家に生まれてきてはならない存在、
災いを招く禁忌の子、神崎家を滅ぼすといわれた、
あの双子──『碧眼』を受け継がぬ、『存在してはならないもの』なのだ!!」
そこまで一気に話し、祖父はハァハァと肩で呼吸をする。
当の本人である少年は、床に目線を向けたまま、凌の方を向こうともせず、
凌もまた祖父を見上げたまま微動だにできずにいる。
当然だ、いきなり目の前の少年が自分の双子の弟であり、
神崎家を滅ぼす災いの種、禁忌の子だなどと言われたのだから。
今まで、自分は一人っ子だと思っていたのに。
自分にそっくりで、どこの誰かもわからない少年だけど、
親友になれたと思っていたのに。
なのにいきなりこんなことになるなんて。
そう思うと、凌の肩が自然と震え始めてきた。
恐怖と、不安、そして、
双子の弟を閉じ込め続けた、祖父と両親に対する怒りから。
「そんなことないよ、その子はすごくいい子だよ!
だってボクの親友なんだ、大切な親友なんだよ!」
「ええい黙れ、ワシの話を聞いてなかったのか!?
確かにお前は一人っ子として育てられてきた。
当然、自分に双子の弟がいたことなど知る由もなかったろう。
故に両親も『双子の片割れ災い説』など話してなかったのもなるほど納得がいく。」
「双子…災い?」
凌は、ふと先ほど祖父が言った『災いを招く』という言葉を思い出す。
「そう、こやつは紛れもなくお前の双子の弟だ。
そして、神崎家の双子で『碧眼』を持たぬものは『災いを招くもの』なのだ!!
お前の両親は非情になりきれなかったために、
こうやって『これ』をこの蔵で育ててきたのだが…
その結果、お前は『これ』と出会ってしまった。
このままでは、『これ』が持っておる災いがお前に降りかかってしまうやもしれん。
そして、お前に降りかかる災いはやがて『神崎家』にも降りかかるだろう。
だからもう二度とここに来てはならん、いいな?
これは『神崎家』のためだ、家を護るためなのだ。」
祖父の言葉に、凌は肩を更に強く震わせる。
もちろん、不安や恐怖のためではなく、より熱く燃え上がる怒りのためだ。
そしてその怒りは頂点に達し、凌に祖父と戦うための力を与えたのだった。






「神崎…神崎……神崎、神崎、神崎っ!!
お祖父さんたちはいつもそれだっ!!
ことあるごとに何でもかんでも神崎、神崎、神崎!!
そこにいる男の子は、ボクの弟なんでしょ!?
だったら、神崎の関係者じゃないか、同じ家族の一員じゃないか!」
「凌…。」
少年が、床から目を離し、凌を見る。
その瞳からはうっすらと──本当に、目を凝らしてみないと
わからないほどにうっすらとだが、確実に涙が浮かび始めていた。
「ええい、ワシに口答えする気か!?
『これ』は確かに神崎に生まれたが、すでに神崎のものではないのだ!
異端なる存在、あってはならない存在、
碧眼を受け継がず、そして尚神崎家を滅ぼそうとする邪悪なものなのだ!!
人の皮をかぶった、悪魔なのだ!」
祖父の話を聞く凌と、その双子の弟は、グッと拳を固く握り閉める。
「凌、ごめんね・・・けど、ぼくはもう、我慢できないよ。」
「何───ガハッ!!!」
弟は、祖父の手から杖を奪い取ったかと思うと、
次の瞬間、それを祖父の頭部めがけ振り下ろす。
何のためらいもなく、ただ真っ直ぐに祖父の頭部へと。
そして、頭蓋骨の割れる鈍い音が響き、真っ赤な鮮血が床へと滴り落ちていく。
「き、貴様・・・何を・・・グァッ!!」
幾度となく、祖父の頭部を殴打する。
そのたびに鈍い音が鳴り、血しぶきがおこる。
やがて祖父の体はフラッと床へと倒れ、痙攣し始めた。
すでに、祖父の体は肉塊へと化す直前にまで達しているのだろう。
「あ・・・あ・・・。」
それを直視していた凌の小さな体が、小刻みに震え始めた。
恐怖だけが凌を支配し、その恐怖が少しずつ、
祖父を殴られたという怒り、憎しみに変わるまで、時間はかからなかった。
「ど、どうして!?どうしてこんなことをするんだよ!?
お祖父さん、お祖父さんっ!!」
すでに息も絶え絶えの祖父の肩を揺さぶりながら、
何とか意識をこちら側に留めようと、何度も何度も祖父を呼び続ける。
しかし、すでに返事もなく、やがて祖父は声を出すこともないまま、
あっけなく息絶えてしまった。
「あ・・・お祖父さん!!お祖父さんっ!!
どうして・・・?どうしてこんなひどい・・・。」
「だって、ぼくの存在を認めようとしないから。」
そう言ったときの弟の表情、声から人間らしさは感じられず、
まっすぐ凌を見つめる瞳には祖父が言っていたような
邪悪さ、憎しみや悲しみなどしか宿っていない。
閉じ込められ、外界から隔離された故に無邪気で、
その無邪気さ故に弟はなんのためらいもなく祖父を殺すことが出来たのだろう。
「ボクは、きみと仲良くできると信じていたのに・・・なのにこんな・・・。」
「ぼくも、本当ならきみの目の前でこんなことしたくはなかった。
けど、我慢の限界だったんだ・・・今日だけじゃない、
週に一度くらいはここにきて、同じことの繰り返し。
さらに今日は、凌にまで聞かれて・・・だから・・・。」
弟は、そばにあったマッチに手を伸ばし、火を点した。
「な、何を・・・?」
「燃やすんだ、何もかも。ぼくにはもう、生きていく希望なんてないからね。
きみが成長し、立派になることを──そして、やがて僕を見つけてくれることが、
僕のたった一つの希望だった、生きがいだった。
けど・・・こうなってしまった以上、僕ときみはもう・・・。」
そう言って、本棚にある本の一冊に、マッチの火を移す。
その火は、近くに置かれていた木製のおもちゃ、
又は木製の置物や同じく木製の本棚自体に燃え移っていき、
それが隣の本棚、そして向かいへと広がっていく。







ほんの数冊に点された火は、瞬く間に蔵中に移り、
二人とひとつの肉塊の周囲を覆いつくした。
「そ、そんな・・・。」
「大丈夫、もうすぐお手伝いさんがこの蔵に来る頃だよ。
そうすれば、きみを見つけ出して連れ出してくれる。」
「・・・ボクは、きみが憎くて憎くてしょうがないよ。
けど、たった一人の弟だから・・・憎みきれないんだ。
こんな狭い蔵の中で、ずっと生きてきた君のことを考えると、
完全には憎みきれないんだよ・・・。」
涙声で、凌は弟を真っ直ぐ見つめる。
「ねぇ凌、この間面白い本を読んだんだ。
お手伝いさんが持ってきてくれたんだけど、
この世界に生まれる人たちは、必ず『生まれてきた理由』というのがあるらしいんだ。」
「生まれてきた・・・理由?」
「そう…その本には色々書いてあった。
例えば、愛する人たちから、永遠に愛されるため。
例えば、愛するものを悠久の時の中で護り続けるため。
例えば、愛するものを苦難から救うため。
例えば・・・ひとつの家を、受け継ぐため。
面白いよね、人は必ずと言っていいほど愛を謳うのに、
僕は誰からも──家族からさえも、愛されない。
当然、そんなぼくには生まれてきた理由なんてない。
生まれてこなければよかった理由、だったらあるのに。
あるいは・・・ぼくは、神崎家を滅ぼすために生まれてきたのかもしれないね。」
弟は、アハハッ、と軽く笑う。
が、その瞳は決して笑ってなどいなかった。
それどころか、悲しみのあまり泣いているようにすら見える。
「そんな・・・君にだって、生まれてきた理由はあるよ!
神崎を滅ぼすためじゃない、君は、そう・・・
ボクに会うために生まれてきたんだ!」
「ぼくのことを憎んでるんじゃないのかい?
なのに、そんなことを言えるなんて、面白いね。」
「そうだけど、でも、完全には憎みきれないんだ。
おじいさんを殺されたことは、とてもショックだし、許されることじゃない。
けど、きみは本当は優しい人だから…
とても明るく、正しい人だと、ボクは信じている。
だって、たった一人のボクの弟なんだから!!
そう、ボクの弟は、ボクに会うために生まれてきたんだ。
そしてボクも、君に会うために生まれてきた。
神崎の家を護るためだけじゃあないんだ。」
「凌・・・。」
弟は、思わず大声で泣き出しそうになる。
ここまで人に優しく接されたのも初めてだったし、
自分の生まれてきた理由を教えてくれた人もまた、初めてだったのだ。
食事やおもちゃ、本などを持ってきてくれるお手伝いさんは、
事務的にそれらをこなすだけで、自分に対しては何も興味を示すこともなく、
ろくに話をしたことすらなかった。
祖父も、両親でさえも、優しく接してなどくれなかった。
そんな中で、唯一優しくしてくれたのが、
自分をこんな世界に閉じ込めた原因の一端である実の兄だというのだから、
なんとも皮肉なものである。
「けど、これからはボクが神崎の家を護っていくよ。
きみが神崎を滅ぼすために生まれてきたんじゃないということを、
きみが神崎に災いをもたらす存在じゃないということを、
ボクが神崎を護ることで証明してみせるから!!
そうすれば、きみが生まれてきた理由は、正真正銘、ボクに会うためだけになるから。」
「凌・・・手遅れだよ。だって、ぼくは祖父を殺してしまったんだから。
それだけで、神崎家は多少なりとも傾くだろう。
それに、もうすぐここは崩れ落ちる。
ぼくは、この蔵とともに終わるから、早く君だけでも──ほら、お迎えが来たよ。」
凌が指をさした先には、お手伝いさんが青ざめた顔で立っていた。
恐らく、蔵が燃えているのを見て、慌てて凌を探しに来たのだろう。





「だったら、君も一緒にここから出ればいいじゃないか!」
「そうは行かないよ。だって、ぼくには生きる希望がないんだから。
祖父を殺した時点で、ぼくは神崎を滅ぼそうとした存在になってしまった。
それは、外に出たところで一生変わらない。
そんな重い十字架を背負って生きるくらいなら、ここで終わったほうがいい。
それに、さっき言ったとおり、僕はきみと会うことを夢見て今まで生きてきた。
きみと共に人生を歩む日が訪れるときを信じて・・・
けど、祖父を殺してしまった時点で、僕は・・・。」
「そんな!!」
「凌ぼっちゃん、ここは危ないですから、早く!!
そんなものは放っておいてください!」
まだ10代後半だろう、長い黒髪の綺麗なお手伝いさんが、
凌の肩を強引に引っ張りながら外に連れ出そうとする。
弟のことを『そんなもの』というあたり、もしかすると神崎の遠縁に当たるのかもしれない。
「いやだっ、一緒に出るんだ!!」
すでに火の手は三人のまわりを取り囲み始めており、
あたり一面は炎の赤に染まっている。
必死になっている凌は感じていないのだろうが、
お手伝いさんの額から多量の汗がにじみ出ているところからして、
蔵の中は相当高温になっているようだ。
「──早く、凌を外に連れて行ってよ。」
その言葉に特に何の反応も示さないまま、
お手伝いさんは凌を少しずつ蔵の出入り口に向けて引っ張っていく。
それでも、凌は実の弟に向かって叫び続ける。
「待って、まだ名前を聞いてない!!
大切な親友の名前──たった一人しかいない、実の弟の名前!
教えてよ、ボクに聞かせてよ!!君の名は─────」
「ないよ。」
あっけなく返された、短い返事に、凌は一瞬表情を凍らせる。
「ないって・・・え?」
「そんなもの、ないよ。
僕は、緑の瞳を継がぬ者──神崎に災いをもたらす者。
そんな僕に名前を───その存在を認める証を与えるほど、ここの人間は優しくない。
もちろん、そこにいるお手伝いのお姉さんも、ね。」
チラッとお手伝いさんを見る。
その目は冷たく、鋭いものだった。
そんな目で見られることに耐えられないのか、お手伝いさんは顔をそらす。
「名前すらないなんて、そんな・・・。」
凌の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
そして、何かを決意したかのように、真っ直ぐ弟の顔を見据えた。
「だったら、ボクが名前をつけてあげるよ!!
君は、いつも楽しそうに笑っていた、明るい笑顔をボクに向けてくれた。
一人孤独に神崎を継ぐためだけに勉強してきた、
閉ざされていたボクの心を照らしてくれた、太陽のような笑顔を。
それが、ボクの頭から離れないんだ・・・だから、だから。
今日から、君の名は────!!」
名前を呼んだ直後、紅く燃え盛る炎が二人の間に割って入ってきた。
もちろん、凌の小さな声などかき消してしまうほどの、轟音と共に。
「───っ!!
君の名前は───!!」
のどが張り裂けそうなほどに、声を振り絞り名前を呼ぶ凌。
その声が聞こえたのか、あるいは、
声が聞こえなくとも、その行為自体が嬉しかったのか。
弟はニコッと微笑むと、凌にその小さく儚げな背を向け、
真紅の炎の中へと姿を消していく。
「待って!!
行っちゃ嫌だよ、──っ!!!
───っ!!!!」
「早くここを出ましょう、危険すぎます!!
あれは存在してはならぬもの、
そしてあなたはこれからの神崎を護り、
大きくしなくてはならない大切な人なのですよ!?
あんなもののために危ない目にあう必要などないのです!!」
「嫌だっ、離して!!離してよっ!!
──っ!!!
───っ!!!」
より一層激しさを増す炎に、
弟の名を呼ぶ凌の声はすべてかき消されていった。
そして、微かにだが、凌の耳に名もなき弟の声が聞こえてくる。
ただ一言、『ありがとう』と──。






「あれから、もう10年以上経つのだな・・・。」
かつて蔵があったその場所で──
実の弟と初めて出会い、そして別れたその場所で、
凌は一人そこに置かれているものを見つめていた。
それは、何段にも石を重ねてつくられており、
一番上に置かれている大きめの縦長の石には、
なにやら名前のようなものが刻まれている。
幼い凌が創った、実の弟の墓なのだろう。
傍らには、筒が地面に突き刺されており、
その中には、まだ煙を出している線香が立てられている。
「あの後、ここにあった蔵は完全に崩れ落ち、
小さな離れが建てられた。
ここから、よく見えるだろう?」
凌は振り返り、あごでそこに建てられている建物を指し示す。
墓から、ほんの数メートル離れたところに、
小さいながらに立派な建物が構えている。
「もう、あんなことがおきないように、と建てられたものだ。
あの中に・・・もしかしたら、私の娘が住むことになるかもしれん。
────そう、双子の・・・片割れだ。
よりにもよって、今日、7月29日、
お前と祖父の命日に、双子が生まれたのだ・・・運命というやつなのかもしれないな。」
そう言って、凌は隣に置いてあった日本酒を墓にかけていく。
「酒など飲んだこともないだろう?
これがなかなかうまくてな。
もし普通の双子として生まれていたなら、
こうして酒を飲み交わしていたかもしれないと思うと、やりきれんな。
・・・なぁ、私は双子の片割れを生かしておこうと思うのだが・・・
それは、正しいことなのか?
双子の弟・・・碧眼を継ぐものは、虚弱体質でな。
もしものことがあったときのために、片割れを生かしておかねばならないのだが・・・
やはり、どうしても不安でな。
双子は、禁忌の子・・・神崎を滅ぼすもの。
そして私は神崎の当主・・・神崎を護らねばならない。
お前が生まれた理由を護るため、お前が神崎を滅ぼす存在ではないと証明するために。
しかし、それでは娘が生まれた理由が・・・。
運命とは、宿命とはなんとも皮肉なものだな。」
凌は、頭を抱え込みながら辛そうな顔をする。
そして、再び墓に向かい、語り始めた。
「双子の片割れは──殺さねばならないのだろうか?
それとも、生かしておいてもいいのだろうか?
お前が生まれてきた理由が神崎を滅ぼすためでなく、
私と出会うために──私に、神崎を護る決意をさせるために生まれてきたのなら、
今日生まれた片割れもまた、生まれてきた理由が別にあるのではないか、と思えるのだ。」
墓に落としていた目線を、ふと空へと向ける。
そこには、今まさに沈まんとしている太陽の姿があった。
その太陽に向かい、凌は弟の名を呟く。
「なぁ、教えてくれないか。
私がやろうとしていることは、正しいのだろうか?
それとも間違っているのだろうか・・・なぁ、我が弟────明(あきら)よ。」





     END