私と先生と眠り姫






 果たしてこの世の何割の人間が『自分の夢』を叶えられるのだろう?
 幼い夢は成長と共に現実を学び、挫折し、消えていく。
 大きな夢を叶えられる人物は極少数。
 けれど夢のハードルが低ければ、その夢を叶える事は可能だと思う。
 私の夢のハードルは、低いという訳じゃないけれど、高いという訳でもなかった。
 夢だった職業に就く事が出来た私は、きっと幸せなのだろう。
 いや、幸せだった。
 きっかけはささいな失敗。
 私は夢は地に落ちてしまったわ。
 いっそ今の仕事を辞めて、実家に帰ってしまおうか?
 そんな事を考えるようになった頃、あの人は私の前に現れたのです。






〜私と先生と眠り姫〜







 ゆるやかに、けれど確実に時は流れる。
 何の変化もないつまらない一日を、今日も過ごさなければならない。
 そう思うと頭がズッシリと重くなった。
 机の上に広げられたカルテから目を離し、窓へと視線を向ける。
 青い空と青い海の狭間。水平線が日の光を浴びてキラキラと輝いていた。
 急に遠くを見たせいで軽い目眩が私を襲い、一瞬視界が暗転する。
 目が少し痛かったけど、目の疲れが抜けていくような気がしたわ。
 この隔離所に唯一良いものがあるとすれば、この景色だろう。と、私は思う。
 けれど、この素晴らしい景色が二度と見れなくなってもかまわないから、私はこの隔離所から逃げ出したい。
 私の夢があったあの場所へ。
 それが無理だと解っていても。
 自分が情けなくて、目頭がじんわりと熱くなる。
「海、キレイだな」
 突然背後からかけられた声に、肩が跳ね心臓が跳ね、息がつまった。
 慌てて振り向くと、そこには白衣に身を包んだ若い男性。
 私より二〜三歳くらい年下のはず。
 彼は私の顔を見て、いぶかしげに眉を寄せた。
「どうしたんだ?」
「何が……ですか?」
 質問の意味が解らず、私もいぶかしげに眉を寄せる。
「えっと……君、目が潤んでるよ?」
 ヤだ。私ったら、泣きかけてたの?
「こ、これはその……。アクビを噛み殺していたので……」
「そっか。まあ今日は天気がいいし、眠たくなる気持ちも解るけど……それで医療ミスなんてしないでくれよ」
 彼は冗談交じりに軽い口調で言ったけれど、その言葉は痛烈に私の胸をえぐった。
 私の表情が歪むのを見て、彼は「しまった」とでも言うように顔をしかめる。
「ごめん……」
「……いえ、気になさらないでください」
 顔をそむけ、私は再びカルテへと視線を下ろした。
 彼は私の過去を知らないけれど、だいたいの予想はついているだろう。
『ここ』にいるという事は、そういう事だから……。
 ここは全国でも有名な帝慶病院の所有する、療養所。
 もう治療しても回復の見込みがない患者。余生を穏やかに過ごす患者。医者に見捨てられた患者。
 そういった人々を押しつけるための療養所。それが、ここ。
 当然ここに勤務する職員も、出世の道を断たれた者ばかり。
 帝慶病院は解雇したい、もしくは病院から追い出したい医者や看護婦を、各地の療養所に異動させる。
 ここは医者の墓場。
 ここに来ない方法は、異動を言い渡された後、辞職するだけ。
 私はかつて、帝慶病院に勤務する新人看護婦だった。
 新人といえど、人命を預かる看護婦に失敗は許されない。
 そう、失敗は……許されない。絶対に。
 最終的に患者が助かったとしても。

 些細なミス。
 命にかかわるほどの事ではなかった。
 けれど私は、ここにいる。
 再び涙がにじみ出し、私は慌てて目もとをぬぐう。
 私に話しかけた男性、この療養所の医師の先生に見られてしまったのではと、不安になったわ。
 けれど彼が私を見ていたかどうか、確認する気はない。
 しばらくすると、彼は静かに語りかけてきた。
「えっと、さっき……電話があったんだって? その、午後からお見舞に来るって」
「はい。いつもの方からです」
「悪いんだけど、午後からは俺……他の患者さんのリハビリの予定が入ってて」
「解りました。来たら、伝えておきます」
「さんきゅ」
 顔をそむけていたから解らないけど、きっと彼はニッと唇の端をつり上げて笑っているだろう。
 不思議な人。
 この療養所で、患者の治療を一生懸命行う変わり者。もしくは、愚か者。
 ここの患者は、現状維持以上の事が出来ないからここにいるのだというのに。
 なのに彼は、患者を救うつもりで治療を続けている。
 特に、患者のリストに記載されていない謎の眠り姫の治療に心血を注いでいる。
 午後からお見舞に来る女性も、眠り姫の回復をあきらめているというのに。
 けれど今は『あきらめていた』という過去形が正しいかもしれない。
 ……下手に希望なんて持たない方がいいのに。






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