私と先生と眠り姫
医師、患者を問わず、療養所にいるすべての人が、先生との別れを惜しんだわ。
それだけ先生がこの療養所にもたらした影響が大きく、みんなから頼りにされている証でもあった。
眠り姫の長いリハビリ生活が終わり、やっと療養所を出られるようになると、
先生はいともあっさりと辞表を提出してしまったわ。
彼女のために、空気のキレイな高原に移り住むらしい。
引っ越し後は、そちらの個人病院に勤務する事がすでに決まっている。
その個人病院の医師はすでに高齢で、若い先生が来る事をたいへん喜んでいるらしい。
今日、先生はこの町を去る。
最後にお礼が言いたくて、私は先生のお宅へ向かった。
ちょっとした手土産を持って。
先生の暮らすマンションの部屋の呼び鈴を押すと、中から私服姿の先生が現れる。
先生の部屋に上がると、すでに荷物のほとんどは片づけられていた。
部屋の端に大きなダンボール箱が一つ置いてあるだけ。部屋がとても広く感じられ、なんだか寂しい。
テーブルもクッションも無く、私達は部屋の中央に座った。もちろん、床の上に。
「悪いね。本当なら、お茶の一杯も出したいところなんだけど……」
「いえ、荷物を片づけちゃったた後に来た私が悪いんですよ。お気になさらないでください。
それに今日は、最後に……お礼を言いたくて来たんですもの」
「お礼?」
先生は、何を感謝されているのか解らないとでもいうように首をかしげた。実際解ってないのだろうけれど。
「私……先生のおかげで、どうして自分が看護婦になったのか、思い出せたんです。
病気で苦しんでいる患者さんを救いたい……患者さんの命を守りたい……そう思っていたんです。
帝慶病院に勤務していた時は、仕事が忙しくて大変でしたけど、とても充実していました。
なのに、些細なミスで、療養所に飛ばされてしまって……。もちろん、ミスした事は深く反省しています。
あの療養所に来る患者さんの事は、先生もご存じですよね? 私、自分の夢が終わってしまったと思ってしまいました。
けれどあの療養所にいる患者さんも、患者さんである事に変わりはないんですよね。
そんな簡単な事に、ずっと気づけなかった……。私だけじゃなく、療養所のみんなが」
せきを切ったように語る私の言葉を、先生は黙ったまま、真摯に聞いてくれていた。
「だから先生は私だけじゃなく、あの療養所にいるすべての人を救ってくれたんです。
先生ったら、その自覚がちっとも無いんですもの。それってなんだか、寂しいじゃないですか?
だからこうして、みんなを代表して、お礼にやって来たんです」
深々と頭を下げ、私は手土産に持ってきた厚紙の箱を差し出した。
「これは……?」
「フフッ。お礼を言うのに、手ぶらじゃどうかなって思ったので……」
「こんな、気を遣ってくれなくてもいいのに……」
照れ笑いを浮かべながら、先生は恐る恐る箱を受け取った。
「あっ、なんか甘い匂い」
「パンです。今朝、実家から届いた物で……。私の実家、パン屋さんですから」
「パンかぁ。実は俺、昔パン屋の手伝いしてた事あるんだ。だからこの匂い……凄く懐かしいなぁ」
「まあ、そうなんですか」
どんなパン屋で働いたんだろう? うちみたいな個人経営の小さなお店かしら?
そのお店のパンより、このパンが美味しいといいな。
「車の中で、ぜひ彼女と一緒に食べてください」
「ありがとう。あいつ甘い物好きだから、きっと大喜びするよ」
彼女が喜ぶところを想像したのだろうか、先生はとても幸せそうに微笑んだ。
こんなにもステキな笑顔を見せてもらえて、来て良かったと心から思う。
「それじゃあ、私はこれで。お昼から療養所に行かないといけないので」
「そっか。そこまで送ろうか?」
「いえ、ここで結構ですよ」
先生は玄関まで来て、手を振って見送ってくれた。
私も小さく手を振って、先生に背を向けしっかりとした足取りで歩き出した。
マンションから出て、日射しを浴びながらしばらく道を進んでいると、見覚えのある車が通りすぎていった。
後部座席には、先生の恋人の姿。
ああ、迎えにきたんだな……。これで本当にお別れね。
寂しいはずなのに、不思議と足取りは軽い。
「さーてと。今日もがんばらなきゃっ!」
私は療養所へ向かって歩き出す。
追い風に吹かれながら、軽やかに。
「……あっ」
道中、ふと思い出した。
実家から届いたパンは妹の自信作で、お姉ちゃんの感想が聞きたいからと送ってきた物だった。
手土産にちょうどいいと思って先生に渡しちゃったから、もう食べられないし感想も言えない。
ちょっとだけ、足取りが重くなる。
けれどそれも一瞬の事。
だって、療養所でたくさんの患者さんが待っているのだから。
今日もがんばって仕事をして、患者さんに一日も早く元気になってもらわないと。
青い空と青い海が見える療養所。
そこは今日も、病気に負けまいという活気にあふれている。
〜FIN〜
彼女の夢は看護婦です。
もし二人があの頃に出会っていなければ、こんな出会いもあったかもしれませんね。
SUMI様