空の彼方 彼方の空





 空。青くてどこまでも広がっている。
 雲。白くて空にくっついている。
 土。茶色くて足の下に広がっている。
 草。緑色で土から生えている。
 どれも夢の中でしか見られない物。現実には存在しない物。そう、教わっていた。






 ――空の彼方 彼方の空






 うんと背伸びをして手を伸ばす。
 青い空に貼りついた白い雲をぎゅっと掴む。
 けれど、私は知っている。
 どんなに手を伸ばしても、雲に触れる事なんて出来ないって。



「NANAぁ、痛いから放してくれ」
 瞼を上げる。
 瞳いっぱいに光が飛び込んでくる。
(――眩しい)
 目を細め、光の正体が太陽の光だと気づく。
 ただ明るいだけじゃなく、ポカポカと暖かい光り。
 それはとても新鮮で、とても気持ちのいいもの。

「NAーNA。痛い痛い、痛いから」
 声。男の人の声。
 それは十数年もの間、一度も聴いた事の無い響き。
 初めて聞いた男の人の声はとても荒々しく、怒りを孕んでいて、とても恐かった。
 でもこの人の声はとても穏やかで、聴いているととても心が安らぐ。

 陽の光が陰る。
 私とお日様の間に割り込んだそれは、顔をしかめながら私の瞳を覗き込んでいた。
「NA〜NAぁ……いい加減目を覚ませって」
 ゆっくりと、ゆっくりと、意識が眠りの深みから浮上してくる。
「んっ……むに……」
「おっはよー」
「……おはよぉ……」
 彼、慎吾君の顔が横向きになっていた。
 その額から、髪に混じって肌色の何かが生えている。
「NANA」
「うん……なぁにぃ?」
「髪」
「かみ?」
「引っ張らないでくれ」
「……ふぇ?」
 パチパチと瞬きをして、意識と視界がハッキリして、ようやく、
「あっ」
 僕の手が、彼の前髪を力いっぱい握り締めている事に気づく。
「ごっ、ごめんなさい!」
 慌てて手放し、胸の前で万歳するような姿勢で謝る。
 慎吾君は苦笑しながら顔を引っ込め、僕の肩に手を回した。
「ほら、起きろよ」
 彼に上半身を抱き起こされる事が、すごく嬉しくて、ちょっぴり照れ臭かった。
 だからすぐに彼の顔を見る事が出来なくて、顔をそむけてしまった。
「あっ、ありがとう」
 震えた声でお礼を言うのがやっと。
 こんな臆病な子じゃ、彼に嫌われちゃうかな?
 一瞬胸をよぎった不安を誤魔化すように、僕の目が勝手に泳ぎ出す。
 すると、ここが校舎の屋上だと気づく。
 えぇっと、どうしてこんな所にいるんだろう?
 確か、お昼休みに慎吾君が「今日は購買でパンでも買おうぜ」って言って、
 僕は甘ーいクリームパン、慎吾君は焼きそばパンを選んで、どこで食べようかって話になって……。
 それで、屋上にやって来たんだっけ。
 教室から見えない位置を選んで、一緒にパンを食べて、お腹が膨れて一息ついて、寝転んで、空を見上げて。
「僕、眠っちゃってたの?」
「ぐっすりと」
 微笑みを浮かべた彼の手が伸びて、僕の頭を撫でる。
 指先が三つ編みの根本の部分に絡み、感触を確かめるかのようにゆっくりと動く。
「ヤだ……起こしてくれればいいのに」
「だって、あんまり気持ちよさそうに寝てたからな。まっ、この陽気じゃ仕方ないさ」
 彼の指が、僕の髪から離れた。
「見ろよNANA、空が綺麗だ」
 空を見上げる慎吾君。その瞳は太陽の眩しさに細められながらも、キラキラと輝いていた。
 僕も空を見上げる。首をうんと後ろに傾けて、視界いっぱい蒼と白に染まった。
「ガキの頃さ、空の向こうには何があるんだろうって思ったよ」
 上を向いたまま、慎吾君が呟いた。
「NANAは、何があると思う?」
 上を向いたまま、慎吾君が問う。
「う〜ん……空の上は、お日様やお星様があるんだよね?」
「姉貴は宇宙があるって答えた。NANAの答えは、それと一緒だな」
「じゃあ正解?」
「美月は外国があるって答えたよ。ずっと向こうの空の下には、外国があるんだって。
 まだ外国の名前なんて片手の指で数えきれる程度しか知らなくて、
 その指の中にパリが入っちゃってるような奴だったよ、俺も美月もな」
「結局、何が正解なんだい?」
「空の向こうの定義によるな。確かに空の上には宇宙があって、空の下には国がある。
 じゃあ、海の向こうには何がある?
 海の上はやっぱり空だし、海の下は海中、もっと下は海底だ。じゃ、上でも下でもなかったら?
 海はどっかで陸地にたどり着く。だから海の向こうは陸があるんだ。
 だったら空の上でも下でもない、空の向こうには何があるんだろう? 子供心にそう思ったよ」
「う〜ん……何だか難しくなってきたなぁ。空の向こう……上でも下でもないなら……」
 少し視線を下ろして、空の彼方を見つめる。
 空の彼方。地平線の向こうも、やっぱり空が広がってるんだと思う。
 それがどこまでもどこまでも続いていて、世界を一周して頭の上に戻ってくる。
 そう考えると、すごくワクワクした。蒼い空が世界中を包んでいるんだ。
「空の彼方は、やっぱり空が広がってると思う」
 僕が自分で考えて見出した答えを聞いてもらいたくて、弾んだ口調で彼に言った。
 すると嬉しそうに微笑みながら、彼は答える。
「彼方の空は、やっぱり同じ色をしているんだろうな」

 日溜まりの中、大好きな彼と他愛のない会話をしている。
 まるで夢のような、とても幸せなひととき。
 こんな時間を、これからも彼と過ごして行きたいと思った。
 何て欲張りなんだろう。
 でも、あまりに幸せすぎて、そう思わずにはいられない。



「……さてと。腹ごしらえも済んだし、目もすっかり覚めたし……」
「そろそろ教室に戻らないとね」
「いや、今は授業中だし……戻ると叱られるからパス」
「そっかじゃあ……って、えぇえ〜っ!?」
 驚く僕の肩に、彼の腕が回される。
「NANAがお昼寝してる間にチャイム鳴っちまったからな」
「だったら早く戻らないと!」
「いーんだよ。今は弥生先生の授業だから、後で謝れば許してくれるさ」
「でも、弥生先生だって怒る時は怒るんだよ?」
「そりゃ他のみんなと一緒の時は怒るだろうけど、他の人の目が無い時は笑って許してくれるさ」
 なぜか余裕の姿勢を崩さない慎吾君。
 その自信はどこから来るのだろう? だって、悪いのは授業をサボッている僕達なのに。
「NAーNA、そんな心配しなくて大丈夫。
 寮の点呼を散々俺にやらせたお詫びとして、色々都合利かせてくれるからなぁ弥生先生は」
「そっ、そうなのかい?」
「そうなの」
 肩に回された腕が伸び、彼の手が僕の詰め襟を外す。
 指が学ランの中に入り込み、さらに胸を押さえているサポーターの中へ……。
「しっ、慎吾君っ!?」
「弥生先生の授業が終わるまでまだ時間あるし、食後の運動としゃれ込もうか」
「でっ、でも、こんな……誰かに見られちゃうよぉ……」
「大丈ー夫。この位置なら立ち上がっても頭くらいしか見えないさ。
 座ったまますれば、俺達の姿は見えない。後はNANAが大きな声を出さなけりゃ……
「きゃんっ! ヤだぁ、そこは……」

 大好きな彼に流されて、暖かいお日様の下で肌を晒していく僕。
 胸やお腹といった、普段隠れている部分に日射しが当たり、くすぐったい。
 けれど、心地良い。
 そこに彼の指が這い、身体の内から別の快感が滲み出る。
 もうっ……しょうがないなぁ。
 僕も覚悟を決めて、彼に身をゆだねる。

 ふと、思う。後どれだけ彼と肌を重ねられるのだろう?
 後どれだけの間、彼と一緒にいられるのだろう?
 空の彼方にある、僕が暮らしていたあの場所を想う。
 この日々が終わったら、僕が無事生還出来たら、僕はきっとあの場所へ帰るのだろう。
 ずっと彼と一緒にいたい。どんなにそう願っても、それは決して叶わないのだから。
 けれど……一緒にいたい、あきらめたくない。
 この鷹宰学園で、彼と一緒に学園生活を送りたい。
 この空の下で生きて行きたい。
 あの場所から見たら、ここも空の彼方なのだろう。

 彼方の空の下、僕達は愛を交わした。






   お し ま い











特に何事も無い、ただの昼下がり。
そんな平凡な時間さえ、NANAにとってはどれだけ……。
そう考えると、日常に対する見方が少し変わって来るような変わらないような。
SUMI様