秘密のParty Party
7月下旬。
学生にとってこれ以上ない幸福が訪れているというのに、ボクは不幸のズンドコにいた。
夏休み。
学校に行けず、外の世界にすら出られなかったボクにとって、勉強はとても楽しいものだった。
だから夏休みになって学校に行けない事は、むしろ悲しい事でもある。
けれどボクは期待していた。
夏休みになったら、色々な事をしようと思っていた。
彼と一緒に宿題をやったり、彼と一緒にどこかへ出かけたり、彼とたくさんお喋りをしたり、彼と1日中一緒にいたり。
とにかく彼、慎吾君と一緒にいられればそれで良かった。
慎吾君が夏休みになっても実家に帰らず、一緒に寮にいてくれると聞いた時は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
けれど最近、慎吾君はあまりかまってくれない。
夏休みになったとたん、彼は急に部活に精を出し始めた。部活が忙しいと言って、いつも学校へ出かけてしまう。
彼の迷惑にならないよう、ボクは寂しい気持ちをこらえて必死に我慢した。
でも、寂しいものは寂しい。
そして今日もまた、彼のいない辛い1日が始まる……。
秘密のParty Party
「悪ぃ、今日も部活なんだ」
と、慎吾君は頭を下げて謝った。
「そんなぁ…。夏休みに入ってから、毎日部活へ行ってるんでしょ? 1日くらい休んだって…」
「そうもいかないんだよ。今すげー忙しくて、時間もあまり無いし…」
「夏休みだっていうのに、いったい新聞部で何をやっているのさ」
「…え〜と。秘密なんだ、ゴメン」
再び頭を下げる慎吾君。
何でも夏休み中新聞部ではかなり機密性の高い特殊な記事を書く事になり、部外者には何一つ教えられないらしい。
そういう決まりなら仕方がないけれど、だからって毎日行かなくてもいいじゃないか…。
部員は慎吾君1人じゃないのだし、慎吾君ばかり忙しい思いをしちゃかわいそう。
それにボクだって…慎吾君と一緒にいられなくて寂しいのに。
「…っと、もうこんな時間か。じゃあ俺行くから」
呼び止める間もなく慎吾君は部屋から飛び出し、人気の無い寮の廊下を走っていく。
あ〜あ、今日も1人お留守番かぁ…。
さて、どうしようかな?
夏休みの宿題は慎吾君に教えて上げようと頑張ってやっちゃったから、もう全部終わってるし。
本でも読んでようかな? それとも久し振りにインターネットで遊んでみようかな?
…ああっ! やっぱり駄目っ!
慎吾君がいないんじゃあ、何をやったって面白くないよっ!
退屈で、寂しくてたまらないよぉ…。
このまま部屋でじっとしててもヤな事ばかり考えちゃうし、散歩にでも行こうかな…。
ボクは大きくため息を吐くと、念のため財布を持ちノロノロと部屋を出て、廊下の角に差しかかり、
「アレ? 太陽、部活行かなくていいのか?」
聞きなれない男子生徒の声に立ち止まる。
そして、聞きなれた声が返事をした。
「今日はな。スポーツ特待生とはいえ、この暑い中で毎日部活ばっかじゃ辛いだろ?
それで疲れが溜まった頃を見計らって、顧問の先生が休みくれるんだよ」
そっと角の向こうを覗き込むと、そこには太陽君と見知らぬ男子生徒がいた。
太陽君は夏休みになっても帰省せず、毎日部活の練習をしているらしかった。
だから夜になると、たいていボクと慎吾君、それに太陽君の3人で食事を摂る事が多かった。
ちなみに、伊集院君はスイスっていう国に旅行へ行っている。
「へぇ〜、じゃあ今日はのんびり出来るんだな」
「ああ。だから今日は久し振りに町に出ようと思ってんだ、買わなきゃならない物もあるし」
「何を買うんだ? 喜多川に対抗するネタでも仕入れに行くのか?」
喜多川君に対抗するネタ? 何の事だろう。
「へっへ〜、悪いけど秘密なんだ。そういや、そっちの方は部活とかやってねーの?」
「俺んとこは何もやってねーよ。てか、運動部以外まともに活動してる部なんてないぜ。
それにほとんどの生徒は帰省しちまってるしな。うちの部長なんか、彼女と海へ旅行だぜ?」
「彼女と旅行!?」
「しーっ! 声がデカイっ、誰かに…おばちゃんに聞かれたらどうする気だ」
恋人同士で海へ旅行、か…いいなぁ。ボクも慎吾君とどこかへ行きたかったなぁ…。
「でもま、部長が帰ってくるまでうちの部はやる事なくなった訳だし、ある意味感謝だけどな」
「じゃあ、部長が帰ってきたら何かやんのか?」
「ああ。登校日に合わせて公開するんだけど、夏休みの遊び場スポット特集みたいなのをやろうかと」
遊び場スポットかぁ…そういう所へ行ってみたいとは思うけれど、慎吾君が一緒じゃないと楽しくないや。
「このお勉強至上主義の学園で、遊び場スポット特集か」
「うちの部長はチャレンジャーだからな」
「新聞部部長、恐るべし…」
へぇ。新聞部の部長さんって、チャレンジャーなんだ。
……………………。
………………。
…………。
え? 新聞部?
「あの人の新聞にかける情熱って凄いからなぁ…かなり本格的になると思うぜ」
「大変だな」
「あの人に付いていけるのは、女子の佐伯さんくらいのもんだよ。あのタッグ最強。
まさに鬼のいぬ間に洗濯、新聞部がヒマなうちに夏休みを謳歌しないとな」
新聞部が…ヒマ?
「ね、ねぇっ!」
ボクは思わず飛び出し、名前も知らない男子生徒に詰め寄る。
「今の話、本当なのっ!? 新聞部は今、やる事が何もないのっ!?」
突然現れたボクに驚きながらも、彼はボクの問いに答える。
「あ、ああ。部長が帰ってくるまで…帰ってくるのは来週くらいだけど、それまで何もやる事がなくて…」
じゃあ、慎吾君はいったい何をしに学校へ行っているのさっ!?
慎吾君が部屋を出て行って、まだ5分と経っていない。走って追いかければ、通学路の途中で追いつけるかもしれない。
「お、おいNANA…。いったいどうしたんだよ」
「どいてっ!」
ボクは進路上にいた太陽君を押しのけると、一目散に寮の玄関へ向かった。
「のわっ!?」
後ろで太陽君の叫び声と、誰かが倒れるような音がしたけれど、たいして気にならなかった。
そんな事より、今は慎吾君の後を追う方が先決だものっ!
夏休みが始まる前は毎日彼と一緒に歩いていた道をしばらく進むと、見慣れた背中を発見する。
慎吾君だ。
ボクは声をかけようとして口を開き、閉じる。
もし今声をかけたとしても、慎吾君は本当の事を教えてくれないんじゃないだろうか?
しばらく彼の背中を見つめた後、ボクはこっそり後を付ける事にした。
彼が本当に部活に行っているのか、この目で確認したい。
そう思って尾行を始めようとして、ボクは立ち止まる。
こっそり後を付けるだなんて、とても最低の行為なんじゃないだろうか?
あの男子生徒は部長さんが帰ってくるまで新聞部がヒマだと言っていたけれど、そうとは限らないかもしれない。
もしかしたら慎吾君は部活の下準備をしているのかもしれない。
やっぱり後を付けるのをやめようと思った瞬間、すぐ慎吾君は次の十字路を曲がった。
…アレ? 鷹宰学園はこの道をまっすぐのはず。
なのにどうして、慎吾君は道を曲がったんだろう?
そうだ、新聞部なのだから、取材にだって行ったりするはず。
必ず新聞部の部室で作業を行うとは限らないじゃないか。
そう思いながらも、ボクは彼の後を追ってしまう。
せめて彼が何をしているのかだけでも突き止めたい。
そして、後で彼に謝ろう。
慎吾君は商店街を抜け駅へ向かうと、そこで切符を買い電車に乗った。
ボクも同じように切符を買い、慎吾君の乗った隣の車両から様子を伺う。
3駅目で慎吾君が電車を降りたので、ボクも慌てて降りた。
そして改札を通り駅を出たところで、慎吾君は周囲をキョロキョロと見回す。
ボクは咄嗟に駅前にあった何かの屋台の影に隠れた。
もしかして、誰かが後を付けているって気づいちゃったのかな?
そうでない事を祈り、ボクはそっと息を潜める。
すると彼は急に笑みを浮かべ、ボクが隠れている屋台の方へ向かってくる。
見つかっちゃったっ!?
どうしよう、心臓がバクバクと早鐘を打つ。
ボクが後を付けていたなんて知ったら、彼はどう思うだろうか?
嫌われちゃう、かもしれない…。
そんなの嫌だっ!
無駄かもしれないけれど、ボクは素直に謝ろうと決意し、屋台の影から姿を――。
「よっ、お待たせ」
姿を出そうとし、ピタリと動きを止める。
慎吾君の視線はボクではなく、屋台で何かを買っている誰かへと向いている。
誰に?
その答えはすぐに解った。
「女の子を待たせるやなんて、あんたいい度胸しとるな」
聞きなれた声。
そんな、まさか、どうして彼女がここに?
どうして――。
「今がちょうど約束の時間だろ? ライムはいつ着いたんだよ」
どうしてライムちゃんと慎吾君が…?
「待ち合わせ時間より早く来るんは、人として当たり前や」
「で、時間つぶしにたこ焼きか」
と言って、慎吾君は屋台を覗き込む。
どうやらこの屋台は、たこ焼き屋さんみたい。
ボク達はほんの1・2メートルくらいしか離れていないのに、2人は幸運にもボクに気づかなかった。
「うちは大阪人やで。たこ焼きは大阪の命や、せやからちょっと味見を…」
「1個くれ」
「あ、こら! 何すんのやっ! それはうちのたこ焼き――」
「1個くらいケチケチすんなよ、約束どおり昼飯おごってやるから」
「しゃーないなぁ。そんかし、昼飯は豪勢にな」
「ああ」
…ナニ、これは?
これって…慎吾君とライムちゃんは、ここで待ち合わせをしていたって事だよね?
「じゃあ行こうぜ、色々見て回らないと」
そうして慎吾君とライムちゃんは、並んで歩き出す…。
これって、これってまるで……デートじゃないかぁっ!!
夏の太陽がギラギラと照りつける灼熱…が嘘のような、冷房の効いた涼しいデパート。
そこの小物売り場に、一組のカップルがいる。
それは…。
「なぁなぁ、これなんかええんとちゃう?」
「う〜ん、悪くはないんだけどなぁ。いまいちこう…グッとこないな」
「そうかぁ? ん〜…、言われてみれば、ちょっと似合わんかな」
慎吾君と、ライムちゃん。
2人はあの後すぐこのデパートに入り、アクセサリー等を物色している。
楽しそうに、お互い笑い合いながら、仲睦まじく。
「このリボンなんてどうやろ? キレイな空色のリボンや」
「悪くないな」
リボン。慎吾君には必要ない物…という事は、ライムちゃんへのプレゼント?
慎吾君が、ライムちゃんに…。
商品棚の影から2人を見つめながら、ボクの目に涙が滲む。
ヤだ、どうして涙が出てくるんだろう。
慎吾君が…あんなに楽しそうに笑っているのに。
ボクは2人から目をそむけ、ごしごしと涙を拭う。
こんな所で泣いていたら周りのお客さんに不思議がられて、慎吾君達にも気づかれちゃう。
ボクは大きく息を吸って、吐いて、呼吸と心を整えて、再び慎吾君とライムちゃんの方を見る。
2人はすでにリボンが置いてあった場所から移動し、別の商品を見ていた。
この位置からだと、そこに何が置いてあるのか解らない。何を見ているんだろう?
「これ可愛いわぁ…」
「そうだな。悪くはないと思うけど、ハートかぁ…」
「うちはええと思うんやけどなぁ」
「そうだな、とりあえず候補の1つとして…あ、コレ」
「なんや?」
2人は商品を手に取り、覗き込む。
何を持っているのか解らないけれど、手のひらに収まるような大きさの物みたい。
「こいつなんかどうだ? かなり似合うと思うぜ」
「これええわっ! まさにイメージにピッタリ、絶対に似合うっ!」
「ライムがそう言うんなら、こいつに決めるか」
「うんうん、これにしよっ!」
2人はそれを持ったままレジに…向かわず、また別の商品の棚へ行く。
慎吾君がさっき買うと決めた物を持っているけれど、大切そうに胸に抱いているので、何なのかは解らない。
けれどライムちゃんがあんなに喜ぶんだから、きっと素敵な物なんだろう。
2人が次に向かった先の商品、今度はボクの位置からでも何があるのか見えた。
それは…。
「写真立て、か。アメリカ人らしい感じがするな」
「何言うてるんや、写真くらい日本人でも飾るやろ。それに、あんたさっきうちの事を大阪人言うてたやんか」
「そういやそうだったな」
慎吾君はおどけた顔で笑い、ライムちゃんは優しく微笑み返す。
「やっぱり、こういうのってあった方がいいと思うんよ」
「そうか?」
「そうや、やっぱり一緒に写ってる写真くらい飾りたいやないの」
優しげな微笑みが、ちょっぴり意地悪な笑みに変わって、ライムちゃんは言葉をつむぐ。
「だって、恋人同士なんやから――」
その瞬間、ボクは足元がガラガラと崩れていく錯覚を覚えた。
コイビトドウシ?
それは、誰と…誰の…事なの?
そんなの、決まっているじゃない。
今、彼女の隣にいるのは慎吾君。
今、彼の隣にいるのはライムちゃん。
…そう、だったんだ。知らなかった、全然気づかなかった…。
いつから、そんな関係になってたんだろう……。
ボク、馬鹿みたいだ。
そうとは知らずに勝手に寂しがって、内緒で後をつけて、ヤキモチを焼いて…。
ライムちゃんはいくつかある写真立ての中から1つ選ぶと、それを持ってレジへ向かう。
もちろん、慎吾君も一緒に。胸に大切な何かを抱きながら。
そして2人はレジでお会計を始めた。
店員さんと何か話しているけれど、距離があるせいでよく聞き取れない。
お会計に少し時間がかかったけれれど、慎吾君は商品を入れた袋を受け取り、ライムちゃんと一緒に再び歩き出す。
2人は楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに語り合いながら。
「さ。買う物買ったし、そろそろ飯にしようぜ」
「せやな。ここの上の方の階に、美味しい和食の店があるんよ」
「じゃあそこに行くか。俺、何食おうかな」
「うちはもう決まっとるで、大好物の天ぷらや」
「へぇ、天ぷらが好きなのか」
「そうや。ちなみにあんたは何が好きなん?」
「俺か? そうだな、俺は――」
「へぇ、うちもそれ好きなんや――」
「じゃあさ、一口ずつ交換しないか? それで――」
だんだん2人との距離が遠ざかり、何を話しているのか聞こえなくなってしまう。
けれど、2人の笑顔はしっかりと見える。
ボクは呆然とその場に立ち尽くしたまま、2人がエレベーターに乗るのを見送っていた。
エレベーターの扉が開き、他の何人かのお客さんと一緒に中へ入り、扉が閉じる。
「ただいまー」
西の空が赤くなった頃、慎吾君は帰ってきた。
寮を出る時に持っていったカバンは、今朝見た時よりふくらんでいる。
そこに何が入っているのか、考えるまでもない…。
「お、おかえりなさいっ」
ボクは笑顔を浮かべながら、平然をよそおって言った。
いつもどおり振舞おうと、ボクは決めていたから。
「NANA、何か元気ないけど…どうかしたのか?」
「えっ!? や、やだなぁ、ボクは元気だよっ!?」
ど、どうしてバレたんだろう…。
「いや、いつもなら俺が帰ってくると…いきなり抱きついてくるじゃないか。最近は特に」
うぐっ…そういえばそうだった。
でも…そんな事、もう出来ないよ…。
キミが好きなのはボクじゃなくて、ライムちゃんなんだから…。
「え〜と、今日はその、少し疲れちゃったかな?」
「疲れた…って、今日は何をやってたんだ?」
キミの後を、つけていたんだ。
「ちょっと…散歩にね」
「…? そうか。まあ、たまには外に出ないとな」
慎吾君はやっぱり、ボクの様子がおかしいって思っているみたい。
これでも精一杯隠しているつもりなんだけど…。
「ああ、そうだ」
慎吾君はカバンを机の横に置いて、座卓の横のクッションにどさりと腰を下ろす。
「疲れたんだったらさ、明日は出かけたりせず寮でのんびりしたらどうだ?」
「…うん、そうだね」
そうだね、それも悪くないや。
1人で色々と考えたい事もあるし。
それに、キミと一緒だと…辛いから。
泣きたくて泣きたくてしょうがないのに、キミと一緒だと泣く事が出来ないから…。
「…なぁ、NANA。ホントにどうしたんだ? 散歩で疲れたって割には…何か変だぞ?」
「そうかな?」
「ああ。今日はもう寝た方がいいんじゃないか?」
「…そう、だね。もう寝るよ」
ボクはのろのろと寝巻きに着替えると、ベッドの中に入った。
彼に背を向け、白い壁を見つめる。
「電気消そうか?」
「ううん、いいよ」
電気は点いているはずなのに、部屋がとても暗く感じる。
まるで、月や星の光すら届かない、あの離れの中に戻ったみたい。
「そっか…じゃあ俺、宿題やってるから。おやすみ、NANA」
「うん、おやすみなさい」
宿題…か。
慎吾君がいない間、一生懸命宿題をやって…教えて上げようと思ってたのに。
何をやってるんだろう…ボク。
しばらくすると、慎吾君の机の方からカリカリと何かを書く音が聞こえ始めた。
静かな部屋の中、他に物音もないので小さな音でもはっきりと耳に届く。
私はベッドの中で白い壁を見つめ、シャープペンが文字を書く音を聞きながら、ただボンヤリとしていた。
何もしたくない。
何も考えたくない。
今は、何も――。
どれくらいの時間が経ったのか…気が付くと、シャープペンの音は消えていた。
宿題が終わったのかな? それとも、ちょっと休憩をしているだけ?
ちょっと様子を見てみようかと思い、首を机の方に向けようとした瞬間。
「NANA、起きてるか?」
ドキリと心臓が跳ね上がる。
私は慌てて目をつぶり、眠った振りをした。
「NAーNA」
もう1度、慎吾君はボクの名を呼ぶ。
けれどボクは返事をせず、眠った振りを続けるだけ。
「寝た…か」
と慎吾君が呟き、椅子がきしむ音がした。
また宿題を続けるのかなって思ったけど、いつまで経ってもシャープペンの音は聞こえてこない。
変わりに、電話の音が鳴る。
机の方で椅子がガシャリと音を経て、足音が電話に向かう。
「もしもし」
『もしもし〜、橘君ですねぇ? 帰ってきたのなら帰ってきたと、連絡をくれても損はないですよぉ』
電話から漏れる声は、部屋が静かなおかげではっきりと耳に届く。
これって、盗み聞きになっちゃうのかな?
「なんで帰ってきた事をおばちゃんに連絡しないといけないんだよ」
『それはですねぇ〜、私があなたへ送られてきた荷物を預かっているからですぅ』
「にも…ああ、間に合ったみたいだな」
荷物? いったい何だろう。
「じゃあ晩飯食いに行くついでに、荷物も受け取っていくよ」
『解りました〜、お待ちしてますぅ』
「それと、NANAはもう寝ちまったから…NANAの分の飯は用意しなくていいよ」
『そうですか、ずいぶんと早い就寝ですねぇ。念のためおにぎりでも握っておきましょうか?』
「そうしてくれ」
『それとですねぇ…明日の事なんですが…』
明日?
『本当にやるんですかぁ? 私はあまり気が乗りませんが…』
「大丈夫だって。明日学校にいるのは弥生先生だけだろ? バレやしないって」
『うぐっ…まあ、そうなんですが…何もあんな所で』
「あそこなら広いし、女子も呼べるからな」
『ですが…』
「…………ああ、そうだ。今さ、俺英語の宿題やってたんだ」
『うぐっ…』
「いやぁ、英語は難しいですねぇ。もし寮の中に、英語が得意な人がいたら便利だろうなぁ…」
英語の得意な人…って、ボクかな?
『橘君…あなた、いい性格をしてますね…』
「つー訳で、明日はよろしく〜。今から飯食いに食堂行くよ」
ガチャリという音と同時に、2人の会話は終了する。慎吾君が電話を切ったみたい。
そして足音がベッドに近づいてきて、止まる。
しばらくの沈黙の後、慎吾君の手がそっとボクの頭をなでる。
「NANA…」
いつもならすごく嬉しいはずなのに、今は胸が苦しい。
「ゆっくり休んで、疲れをとるんだぞ」
優しくいたわるように呟くと、手が離れ、足音がドアへ向かう。
ドアの開く音、ドアの閉まる音。
それからしばらくして、ボクはベッドから抜け出した。
慎吾君の机に行くと、そこには英語の宿題が置いてあった。
間違いが目立つ。
これじゃあ慎吾君の成績が悪くなっちゃう…勉強、教えて上げたいな。
でも…今のボクは…。
ふと目を覚ますと、窓からカーテン越しに淡い光が注ぎ込んでいた。
まだお日様も昇りきっていない、そんな時間。
時計を確認する気にもなれなくて、ボクはベッドの中で寝返りを打つ。
そのままボンヤリとしていた。
…慎吾君は、今日もライムちゃんに会いに行くのかな?
…太陽君は、今日も暑い中部活に精を出すんだろうな。
…伊集院君、いつ旅行から帰ってくるんだろう?
…英語の宿題、慎吾君に教えて上げたかったな。
…慎吾君とライムちゃん、いつからあんな関係になってたんだろう?
…お腹、空いたな。
様々な思考が浮かんでは消え、意味の無い時間をしばらく過ごす。
それからキュ〜ッって音がお腹からして、昨日は晩ご飯を食べていなかった事を思い出す。
何か食べたいな。
そう思って身を起こし、ふと座卓に目を向けると、そこにはサランラップのかけられたおにぎりがあった。
そういえば、管理人さんがおにぎりを作るって言っていたような気がする。
ボクはノロノロと起き上がり、座卓の前に座り、おにぎりに手を伸ばす。
おにぎりはお塩の味がして、ちょっぴりしょっぱかった。
涙が頬を伝い、唇に届く。
おにぎりのしょっぱさが、少しだけ増した気がした。
今日も慎吾君は部活と言って寮を出た。
太陽君も同様に部活があって、慎吾君と一緒に寮を出た。
だから今日も、ボクはひとりぼっち。
ボクは室内電話を手に取り、管理人さんにつなぐ。
管理人さんはどこかへ出かけようとしていたみたいだった。
ボクは管理人さんに頼んで、神崎家へ電話をつないでもらう。
そして、ボクからの電話に出る人物は、たった1人しかいない。
「…もしもし、七海?」
「…うん」
懐かしい声。
この学園に来るまで、毎日聞いていた声。
ボクを育ててくれた、大好きな温子伯母さんの声。
「急に電話をかけてくるだなんて…何かあったの?」
やっぱり温子伯母さんはすごいや、何でもお見通しみたい。
「うん…ちょっと、お話をしたくて」
「お話?」
「ボク…帰ろうかなって、思って…」
短い沈黙の後、温子伯母さんが戸惑った声で言う。
「そうね、せっかく夏休みなのだし…たまには帰ってくるのも悪くはないと思うけれど…。
でも神崎家へ帰ってきたとしても、あなたはあの離れにしかいられないのよ?
そっちだったら自由に外へ出る事が出来るし、何より慎吾さんがいてくれるでしょう?」
「う、うん…そうだけど…」
言えない。
どうしてボクが神崎家へ帰ろうかと思ったかなんて、言えない。
言ったら温子伯母さんは悲しむに違いないから。
だから、言えない。
「でも…温子伯母さんにも会いたいし」
「会いたいのだったら、私から会いに行くわ。あなたが神崎家に帰る必要なんてないのよ?」
温子伯母さんはボクが神崎家へ帰る事を、こころよく思ってないみたい。
ボクは離れに閉じ込められていた事を不幸だなんて思ってないし、お父さんを恨んでもいないのに。
「それにね、七海。今は…神崎家には帰らない方がいいと思うの」
「…え? どうして?」
「その…今、神崎家の方は…ちょっと事情があって…ええと、とにかく、今は駄目なの」
温子伯母さん、どうしたんだろう? 何だか様子がおかしい。
ボクは不審に思いながらも温子伯母さんに迷惑をかけたくなくて、この話を終わらせる事にした。
「うん、解った。帰るのは…また今度でいいや」
「そう…良かった」
温子伯母さんの安堵した声が聞けて、ボクはホッと胸を撫で下ろした。
「それじゃあ…また電話するね」
「ええ」
ボクは電話を切ると、軽いため息を吐いてベッドに転がり込む。
…ボク、どこにも居場所がないや。
彼の隣にいる事も出来ず、家に帰る事も出来ず…。
これから、どうしようかなぁ…。