紫苑






 顔を見なくても、彼が誰なのか解った。
 あたしが考え事をする時、逆立ちをするって知っている男の子は、家族を除けばあいつだけ。
 そして聞き慣れた、聞き飽きた声。
 この人は、あたしの幼馴染みだ。
「ドアの音にも気づかないなんて、いったい何を考えてたんだ?」
 頭上から…いや、足の上から声が降ってくる。
 感情を感じさせない、淡々とした声が。
「あ、あたしが何を考えてたって、別にいいでしょっ?」
「まあ、そうなんだけどな。ところでいいのか?」
「何がよ?」
「パンツ、丸見えだぞ」
 カッと頬が熱くなり、あたしは慌てて足を下ろし立ち上がる。
 背後にあいつの気配を感じながら、逆立ちのせいで乱れた髪と衣服を整えた。
 そして軽く深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返る。
 唇の端をわずかに釣り上げ、奇妙な自信に満ちあふれたその姿は、あたしの知る幼馴染みとはかけ離れていた。
「ひ、久し振りね。最近ちっとも部室に顔出さないから、心配してたのよ?」
「へぇ、そうなのか」
「そうなのっ。…それに、もうディアラバーズの記事だって、とっくに完成しちゃったし…」
「そうか、よかったな」
「よかったな…って、サボっといてよく言うわよ」
「そんな事よりも美月。ちょっと訊きたい事があるんだけど…」
「な…何よ、訊きたい事って」
「今日の昼休み、どこにいた?」
「…え?」
 嘘。もしかして、気づかれてた?
 あたしが見てたって事を…。
「教えろよ、美月。昼休み…どこにいたんだ?」
「どこって…、しょ、食堂よっ! 食堂で、ご飯を食べてたのっ!」
 突然彼は腕を上げ、あたしの肩上を通して背後の壁に手のひらを叩きつけた。
 視界の両端は腕でさえぎられ、あいつの顔を近づいてくる。
「食堂ってのは、校舎の外にあるのか?」
 やっぱり、気づいてたっ!?
 気づいてて、あの行為を続けていたの?
「本当は校舎裏にいたんじゃないのか? 先輩に教えてもらった、あの場所に」
「…そ、そうよ」
「やっと認めたか。覗き見はよくないな」
「ご、ゴメン。あんな事してただなんて、知らなくて…。も、もちろん誰にも言ったりしないからっ!
 あんたが須藤さんとつき合ってるって事も内緒にするし、学園にバレないよう協力もするっ!」
「俺と澪が、つき合ってる?」
 大袈裟に言葉尻を上げて、あいつは聞き返してきた。あたしの言葉を否定するかのように。
「ち、違うの? だって、あんな…」
「別に恋人じゃなくても、女を抱くくらい出来るだろ?」
「なっ…」
 嘘。なんで? 違う。あたしの幼馴染みは、こんなセリフを言う人間じゃない。
「何よそれっ!? それじゃあ、須藤さんとは遊びだっていうのっ!?」
「遊び…か。まあ、間違ってはないな。俺は、俺の奴隷を可愛がっていただけだ」
「ど…れい?」
 今、何て言ったの? どれい? ドレイ? 奴隷?
「なに馬鹿な事言ってんのよっ! ど、奴隷だなんて、そんなの…」
「そんなのいるはずない…か? ククク。だけど現に、ここにいるんだよ。なぁ、そうだろ?」
 誰かに語りかけるように、あいつは首を左に向けた。
 視線の先を追う。あたしとこいつは向かい合ってるから、あたしは首を右に向ける。
 見やすいよう、あいつは左腕を下げた。
 2人の生徒の姿。
「か、神崎君っ? それに、リーガンさんまで…」
「NANA。ライム。お前達は俺の何だ? 美月に教えてやってくれ」
 神崎君とリーガンさんは、幸せそうに微笑みながら、はっきりと答える。
「ボクは、ご主人様の奴隷です。どんなHな命令だって喜んで聞く、いやらしい子です」
「うちも、ご主人様の奴隷や。もうご主人様無しでは生きていけない、淫乱な娘や」
 とても、とても幸せそうに。
 自らの言葉を噛み締め、喜悦に浸る2人。
「という事だ。澪も俺の奴隷…って訳さ。ちなみに後2人いるんだが…、うち一方はあまり可愛くないけど、色々役に立つ」
「な…何を、言って、いるの? ねぇ…、あんた、どうしちゃったのよっ?」
「どうって…。普通に、楽しい学園生活を送っているだけさ」
「ど、どこが普通なのよっ! しかも、奴隷…だなんて、その上そんなふざけた事…」
「ふざけてなんかいないさ。それに美月。お前も…俺のものになるんだからな」
「えっ…?」
 あいつの下げられた左手が、あたしのシャツの隙間から中に入り込み、そっと脇腹を撫でた。
「ヤッ…! な、何を…あっ!」
 なやましく動く指に身体を刺激され、肩がビクンと跳ねる。
 触れられているのは脇腹なのに、なぜか痺れるような快感が走る。
 続いて、あいつの右手はあたしのうなじをそっと撫でた。あたたかくて、不思議と気持ちを落ち着かせる。
 そしてグイッとあたしの頭を引き寄せ、唇を塞がれる。
 幼馴染みの唇で。
 眼前に、あいつの黒い瞳。
 あたし、何をされたの? 唇を唇で塞がれて…。
 それって、つまり…。
 彼は少しだけ唇を離し、囁く。
「美月とキスするのは、これで3度目か」
 そして再び唇が押しつけてきた。
 キスされたのだと、やっと理解する。






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