私と先生と眠り姫






 療養所の中庭で太陽の光を浴びながら、彼はベンチの真ん中座っていた。
 私が休憩に使おうとしていたベンチに。
 ひんやりと冷えた缶コーヒーを手に、私はどうしようかと思案する。
 先客がいるのなら、おとなしく他の場所へ移ろう。
 そう結論を出すのにかかった時間は、ほんのわずか。
 けれどそのわずかな間に、彼は私の存在に気づいてしまった。
「君も休憩? お疲れさま」
 そう言うと彼は、座っている位置を横に移動する。
 私のために座るスペースを空けてくれたのでしょうね。
 おかげで流されやすい私は、そこに座るはめになってしまった。
 けれど私には話す話題など無く、ボンヤリと庭を眺めるだけ。
 花壇がある。
 芝生がある。
 木々がある。
「君さ……この仕事、どう思う?」
 ふいに、彼は語りかける。庭に植えられた木を見つめながら。
 私も木へと視線を移しながら、答える。
「どう、と言われましても……」
 風が吹き、木の枝がこすれガサガサと音が鳴った。
「仕事してる時、何かをあきらめてるように見えたから……」
 一枚の葉が、枝から離れる。
「……私、こんな所で何してるんだろう……って、思います」
 風に抱かれ、宙を舞う。
「どうして?」
 風が止んだ。
「だって私、人命を預かる看護婦さんに憧れていたのに……」
 一瞬、葉は宙で動きを止める。
「些細なミスから、こんな療養所に飛ばされちゃって……」
 そして重力に従い、ゆらゆらと落下を始めた。
「毎日毎日、患者さんの面倒を見てばかり。私は、患者さんを救いたくて看護婦になったのに……」
 葉の先端が、芝生に触れる。
「けど」

 風が吹く。
 葉が、また宙を舞う。

「ここにだって、患者さんはいるだろ?」
 再び飛ばされた葉から目を離し、私は彼を見た。
「ここにいるのがどういう患者さんなのか、先生だって解ってるでしょうっ!?」
「でも、患者である事に変わりはないよ。そして……俺達は医者だ」
 彼は前を向いたまま立ち上がり、歩き出した。
「絶対にあきらめない……。俺は、そう誓ったんだ」
 そういえば、と思い出す。
 彼は、何か失敗をしたとか……そういうのではなく、自分の意思でここに来たのだ。
 もう救えない患者が集まるような、療養所に。
「そろそろ仕事に戻るよ」
 結局一度も私の顔を見ないまま、彼は中庭から立ち去ってしまった。
 まだ休憩時間に余裕があった私は、ベンチに座ったまま。
「どうして……あきらめずにいられるの?」
 今はもう見えない彼に向かって呟く。
 私はもうあきらめている。看護婦という、すでに叶った夢を。
 ここで、いったい何が出来るというのだろう?
 私だけじゃなく、ここに勤務する医者、看護婦のみんなも、あきらめているのに。
 ……あきらめる。私達は何を、あきらめているの?
 医者としての地位? 自分の夢? 患者を救う事?
 改めて考えてみると、よく解らない。
 ここにいる患者の治療を?
 けれど病状が悪化しないよう、つねに注意している。
 容態が急変すれば大慌てで対応する。
 あきらめているのに。
 帝慶病院に見捨てられた患者を、私達は見殺しに出来ない。

 ふいに思い出す。
 初めてナース服を着た時の気持ちを。

 ふいに思い出す。
 ずっと握りっぱなしだったせいですっかり生温くなってしまった缶コーヒーの存在を……。






 眠り姫の魔法がゆっくりと解けていく。
 それに呼応するかのように、魔女の呪いが解けていくかのように、私達は目を覚ましていった。
 患者の治療を決して『あきらめない』彼の姿を見て初心を思い出したのは、私だけではなかった。
 活気があふれる。
 医者も看護婦も生き生きと仕事をこなし、みんなよく笑うようになった。
 それに影響されたのか、自分は完治しないからとリハビリを断っていた患者さんも、
 進んで辛いリハビリに臨むようになったんですもの。
 驚いた事に、帝慶病院の優秀な医師が見捨てた患者の中に、回復の兆しが現れ出した人もいたわ。
 その筆頭ともいえるのが、眠り姫。
 あきらめないと語った先生は、眠り姫の治療に心血を注いでいた。
 眠り姫の病状を詳しく検査し、他の病院から似たような症例を集め、様々な治療を試した。
 少しずつ、本当に少しずつだけれど、眠り姫の魔法は解けていった。
 声に反応して指を動かしたり、時折瞼を上げ美しい瞳をあらわにしたり。
 先生は決して焦らないよう、慎重に、眠り姫の治療を続けている。
 ある日、眠り姫のお見舞に来る淑女が、先生と話をしているのを聞いた。
 詳しい事は解らない。けれどそれはとても悲しい物語。

 ――先生は、恋人を救うために医者になったのだ。

 ああ、そうだったんだ。と納得する。
 眠り姫を目覚めさせるために、先生がどれだけ頑張っていたかを思い返す。
 眠り姫が、先生の恋人。
 王子様のキスでも目覚めないお姫様。
 王子様はそんなお姫様を前に、どれだけ嘆き、苦しんできたのだろう?
 早く眠り姫が目覚めればいいな……。
 そう思いながら、私は今日も患者の治療を続ける。






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